は苦しかった。骨が折れた。身分こそ低く、身体こそ忙しいが前座のほうが定《き》まったお給金が貰えた。つきあいもなかった。給金の貰えない者はその代り師匠の内弟子だから、必要に応じたものはみんな師匠が面倒を見てくれた。
ところが二つ目となるとそうはいかない。
出る席はせいぜい一軒か二軒で、それも半チクな寄席ばかり、従って収入《みいり》はない。
しかもつきあいのほうはもう一人前とみなされているから、祝儀不祝儀、何かにつけて後から後から出銭が多い。
三度に一度は前座に小遣いもやらなければならないし、仲間と飲みにも行かねばならない。楽屋へ這出しにくるやくざがあると、それにも某《なにがし》かの小遣いをとられた。しょせんが一軒チャチな寄席の掛持が増えた位では、毎月毎月足がでてしまった。いや全くその苦しいの何のって、愚痴はこぼしたくなる、不平は湧いてくる、しかも周囲は一人でもあいつしくじればいいと手ぐすね引いて待っている手合ばかりだから、口でばかりお上手をいっても、誰一人味方になってくれるものなんかない。従ってその時分あたら前途ある芸人で二つ目の苦労に耐えかねて江戸を売り、ついに生涯、旅烏で終ってしまうものが少なくなかった。
そうした二つ目としての生活条件だけでもいい加減苦しいところへ、いまの圓朝は阿母《おふくろ》一人かかえて食べさせていかなければならなかった。旅へいったきりどうしてしまったろう父親の圓太郎は、いまだにたよりもよこさなければ、もちろん仕送りひとつしてくるでもなかった。圓朝の稼ぎだけではとても足りないので、母のおすみが他人様の縫針仕事をして僅かに暮らしを支えていた。もちろん切通しの家もとうに畳んで、七軒町の裏長屋へ引き移ってしまっている始末だった。
まだその上に、ここのところ圓生を宗家とする三遊派というものが、なぜかてんで[#「てんで」に傍点]その道での人気が目に見えてなくなってきていた。
初代圓生が山遊亭猿松と洒落た亭号を名乗った昔はいざしらず、この仲間の習いとして猿の字を忌み、「三遊亭圓生」と改めて以来《このかた》も、古今亭新生、金原亭《きんげんてい》馬生、司馬龍生、三升亭小勝と名人上手は続々とあらわれいで、ついほんのこの間まで三遊派の大いなる流れは随分滔々と派を唱えていたのに。
どうだろう、それが近ごろ。
いまの二代目の代になって、新生さん、馬生
前へ
次へ
全134ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング