い、オドオド小圓太が演りはじめるとたちまち昆布だか糸ッ屑だか分らなくなったし、鱈も饅頭もいっしょくた[#「いっしょくた」に傍点]になってしまった。いわんや骨を抜く仕草においておや。我ながらこの間抜々々した恰好、白痴《こけ》が虫歯を押さえている手付きにもさながらで、ほとほと自分がいやになってきた。とたんに、
「ダ、駄目だ!」
 その師匠の「ダ、駄目だ!」という声のピシーリ烈しい音のしたのとポーッと自分の右手の暖かく痺れてきてしまったのとがいっしょだった。
 と見るといつの間に握られていたのだろう師匠の手の二尺|指《ざし》が烈しくブルブル慄えていた。そうして、そうして、自分の右の手の甲がこんなにも堆く、紫いろに腫れ上がってしまっていた。間もなくズキズキ痛みだした、いやその痛いの何のって。
 いつ迄もいつ迄もその手の腫れは退かなかった。ばかりか、だんだん腫れ上がってきた、日一日と紫の痣の色濃きを加えてゆくとともに。
 もちろん、痛みも烈しく募った。
「どうおしだえ、お前その手を」
 とうとう母親の目にとまってしまったくらいだった。
「いいえ、いいえあの何でもないんです」
 あわててその手を袂の中へ隠してしまったが、
「辛《つら》い」
 しみじみ心から叫ばないわけにはゆかなかった。
 でも、辛いとて、今更、後へはもう退けなかった、血みどろになって前進するより他にはこの自分は……。
「……」
 心配そうに母親の自分の傍から去っていったあと小圓太は、思わずその腫れた手の甲を瞼へ持っていった。腫れへ、ズキズキと涙が染みた。

「あしたの朝、暗いうちに稽古においで」
 ある日、師匠がこういいだした。
 湯島を夜中に起きだして、はるばる四谷まで。暮春とはいい、まだ夜夜中《よるよなか》は寒かった。暁方、師匠のところへ辿り着くころには一段とだった。向こうへ着くとまだ師匠夫婦は寝ていた。おしのどんとてようやく床をでたばかりのところだった。
「小圓太さん、あのお師匠さんがお前さんがみえたらね、表のお庭の方を掃除してておくんなさいって」
 寝ぼけ眼でおしのどんはいった。
「ヘイ承知……」
 凍《かじか》む手に竹箒を。
 すぐ表庭の掃除にかかった。
 春曙の薄桃いろの薄紫の濃緑の水浅黄の橙いろのいろいろさまざまの彩雲《いろぐも》が、美しく頭上の空いっぱいに棚引き、今をさかりの花蘇枋《はなすおう》
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