と見せた、「くしやみ講釈」の講釈師が読み立てる『難波戦記』の修羅場はすべて、硝煙鼻を衝く新戦場の活写であつた、「青菜」で大工が一杯御馳走になり乍ら、我家の窮状を訴へるとき、陰惨な生活苦の地獄図を息苦しいまでに漂はせた(大ていの落語家が落までやつて卅分とないこの噺を彼は前半で四十分かゝる)、さらに/\「反対車」の早い方の俥が「ゆき[#「ゆき」に傍点]とちがふてかへりは目がくらんでますさかい。只、何事もおもはんと一心にお念仏を唱へられよ」かう叫ぶとき私は聴いてゐて死刑の宣告でも与へられた心地がした、「もう駄目だ」と心におもつた。小杉未醒氏の随筆に、故梅坊主の深川を踊るとき、上る衣紋阪アレワイサノサと指したら、五十間のなぞへ[#「なぞへ」に傍点]が見えてその料亭の畳、忽ちにメリ/\とめり込むがごときものをおぼえたとあるが、春団治の場合も正にこれであつた。
 かうした点は、彼は、今の大島伯鶴の巧さに似てゐる、伯鶴は「三馬術」でトラツクがでて来たり、「一心太助」でシユウマイを出したりするもので、インチキのごとくおもはれてゐるが、「筑紫市兵衛」の雀の宮の武者一騎走り去る背ろ姿には濛々たる土埃の舞上るが見えるし、同じく山上の花見は場面で颯と吹来る一陣の怪風を主人公が袖で除けるあたりの迫真さ、「面打源五郎」の母が釣瓶の水を浴びる手付きも単なる桶ではなく、立派に釣瓶桶を活写してゐる。まことに春団治は伯鶴の至芸に比していい。加ふるに、伯鶴の方は講談としての大家であるから最早あのトラツクやシユウマイは廃してもらひ度いが、春団治の方はあの荒唐無稽さと本格さと、両々相俟つてその艶を、光りを強めてゐたものとおもふ。しかも今日、伯鶴の中にチラと漂ふ本格さに言及する人もなく、春団治が示してゐた本格の面の素晴らしさを、論ふ人もない。「上方ばなし」と云ふ笑福亭松鶴が五十号近く発行した研究雑誌など見ても、上方落語通の殆んどから邪道扱ひをされてゐる。それもいいとして、その対象に小勝あたりを本格の名人として挙げてゐるのを見ると笑止でならない。(小勝などはいつの間にかあんなえらい人になつてしまつたが、描写も何もできず、脂つこく、他愛なく馬鹿々々しかつたところにこそ、むしろ好感のもてる[#「好感のもてる」に傍点]ものがあつた。結局は小説でなく、雑文だつたのだ)
 ところで小勝の名人視されたことは全くの世の中の色
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング