干した杏《あんず》の袋入りや、カチ栗を風呂敷へ包んだのや、なかにはお芋を持ってやって来るのもあったのにはおどろきましたね。つまりこれを興行が済んでから車へ積んで市場へ持って行き、お宝に代えてからはじめて私たちに支払ってくれるというわけなんですが。このときこうした田舎の珍しい場面をよく覚えておいたので、のちにそれが本職の落語家《はなしか》になってから「本膳」や「百川《ももかわ》」なんて田舎者の出る噺のときにたいへん役に立ちました。それにしても相変わらず私はそそっかしいんですね、このときあるお百姓がうちでこしらえた納豆だといって木戸へおいていったのをてっきり[#「てっきり」に傍点]甘納豆だと思ってムシャムシャとやり、すっかり皆に笑われてしまいました。
さてあまり志ん馬がほめ、事実、お客様方もまた志ん馬以上にほめたりするので、東京へ帰ると、とうとう本腰でやる気になり、すぐつて[#「つて」に傍点]を求めて落語家になりました。そのころ柳派で大御所といわれた本所二葉町の大師匠|談州楼燕枝《だんしゅうろうえんし》の弟子になって、燕賀《えんが》。私が二十五の年でございます。ところで、御成《おなり》街道の日本亭の楽屋で見習いになってマゴマゴしていると、三日目です。二人三人休席の者があって、前座が二度上がりをしましたが、いくらやってもあと[#「あと」に傍点]が来ません。あまりかわいそうですから私が高座へぬいである羽織を引いてこの前座を下ろし、あとへ上がって「天災」という例の八さんと隠居さんの出てくる噺を永々と演りました。するとどうやらこれがお客に聴いてもらえ、喜んで下りてくると、そのころチウチウ燕路といわれていた大看板の燕路さんがいつの間にか来ていて、たいそう私のことをほめ、お前は初めて落語家になったのじゃあるまいとこう言います。このときじつは信州ですこしとほんとうのことを言ってしまえば、そうも燕路さん感心はしなかったでしょうが、それをこっちは田舎まわりと思われるのが嫌さにどこまでもズブの素人ですと言ったため、たいそう燕路さんに感心されてしまい、お前は前座になっている落語家ではないとすぐに師匠の燕枝にはもとより、頭取《とうどり》をしていた蔵前の柳枝《りゅうし》師匠(その時分は下谷の数寄屋町にいましたが)にも話してくれて、さっそく燕花という名に改められ、前座をしないですぐ二つ目に、私は昇進してしまいました。これがますます、私のためにはいけないいけないことだったんです。
そのうえ、さらにいけないことには燕花となってすぐ阿部川町《あべかわちょう》の寄席と吉原の中鈴木《なかすずき》という寄席と二軒掛け持ちがついたのですが、この阿部川の楽屋には燕作という前座がいてお客さまのお集まりの前に一番太鼓を入れる。この打ち方がてんで[#「てんで」に傍点]なっていないし、第一、間がちがっているので気になってなってならないでいるうち、二番太鼓の大太鼓《おおど》のほうを二つ目の私が打つことになったのですが、このときに私の打った大太鼓がたいそう本筋だと席亭からほめられて、そのために今度は二つ目でなく、なんと三つ目へ上げてもらえるようなことになってしまいました。これも最前の田舎まわりの話同様、馬鹿でもチョンでも私は永年緞帳芝居へ入っていたから太鼓の打ち方も心得ていたのが当たり前なのですと話してしまったら席亭さんも買いかぶりはしなかったでしょうが、こんな具合で不思議にトントン拍子に運のいいことにばかりなってしまったから、結局はますますいけないのです。
もうひとつ、おまけにいけないことには、ある晩のこと、この阿部川町から吉原の寄席へ掛け持ちに行こうとすると、自分の前を手品の蝶之助がイボ打《うち》という太鼓を叩く男を連れて高声で私の噂をしながら行く。これが悪口でもあることか、燕花は落語家の太閤さまだ、いまに天下をとるだろうとか、ひと晩でできてしまったあれは富士山のようなやつだとか、そりゃあもうあなた、ほめてほめてほめちぎっていくのです。こうなると私もさあ[#「さあ」に傍点]うれしくって、根がそれ[#「それ」に傍点]そこがそそっかしやときているから、とたんにポーッとしちまって私は吉原の寄席へ行かなければならないのに、夢中で二人をソーッとつけていき、この二人の掛け持ち先の本所の中の郷の寄席までくっついていって、はじめてアッと気がつきました。あわてて吉原の寄席まで駆け出して引き返していって、どうやらやっと間に合わせましたが、なにからなにまでこんなことがすべていけないことだらけだったんです。
だって考えてもごらんください。
本来ならば修業最中のいまだ若い身空《みそら》で常磐津になっても落語家になってもこう万事万端がいいずくしじゃ、外見《そとみ》はいかにもいいけれども、しょせん、永
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング