初看板
正岡容

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平常《ふだん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一席|演《や》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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  上

 ……つらつら考えてみると、こんな商売のくせに私はムッツリしてていったい、平常《ふだん》はあなたもご存じの通りに口が重たいほうなのに、しかもいたってそそっかしい。これはまあどういう生まれつきなんだろうと、ときどき情なくなることがありますが、ほんとにムッツリとそそっかしいんです。いつかも銭湯で帽子《シャッポ》をかぶり、股引をはいたまま、あわや湯槽《ゆぶね》へ入ろうとして評判になったし、裸で涼んでいてフイと用事を思い出し、その上へ羽織を引っかけてすまして電車へ乗って笑われたなんてこともありましたっけ。葉書を出しに行く途《みち》で鮭《さけ》の切身をひと切れ買って、まちがえてその鮭のほうを郵便函へほうり込んでしまったこともありました。こいつはあと[#「あと」に傍点]で郵便屋さんが葉書を集めにきて、さぞや肝を潰したことでしょう。どこの世界にあなた、郵便函から鮭の切身が出るなんてべら棒があるもんですかね。つまり、そんな人一倍のそそっかし屋だから、人生の戦い、芸の修業にも、はじめにあわてて喜んでしまい、とんだ失敗《しくじり》をやらかしたようなことになってしまったのかもしれませんや。
 いったい、私の家はこれでも士族のなれの果てでしてね、ですから小さい時分には野本鴻斎という漢学の先生についてずいぶんいろいろの勉強をしたもんです。ところがその勉強の度が過ぎて、身体を壊した。お医者の言うには、なにかこのさい気の晴れるように音曲でもやってみて、気保養をするがいい、そこで常磐津《ときわづ》の稽古をはじめだしたのですが、これがその自分でいうと変[#「変」に傍点]ですが、なまじ器用な声がでたりなにかするところから、ついすすめられて二十の年には今の林中《りんちゅう》の門人となって家寿太夫《やすだゆう》の名をもらうようなことになってしまった。そうして緞帳《どんちょう》芝居を三軒くらい掛け持ちをすると、ずいぶん、楽にお金がとれた。つまりこの、ちょいと常磐津をやったら、すぐ太夫になれた、またちょいと鍛帳芝居へ出たらすぐにお金がとれた。これがごくごくいけなかったので、そこへもってきていたってまた人間がそそっかしいときているから、ただもう安直に世のなかをうれしがってしまったんでしょう。同じ常磐津の太夫になったとしても、檜《ひのき》舞台へでもつかってもらって初めからウンウン苦しめば、なかなか世のなかを甘くなんか見なかったんですが――。
 そのうえ信州の旅へ出て、上田で岸沢小まつという女の師匠で荒物屋を営んでいる人のところへ厄介になっていると、その土地に昔の名人で土橋亭《どきょうてい》りう馬という人の弟で今は料理屋の旦那の志ん馬《ば》、この志ん馬と小まつさんとが二枚看板で上田の芝居小屋を開けたのですが、あまりの大入りで二日目に志ん馬、咽喉を痛めてしゃべれなくなってしまった。そこで私が一段、助《スケ》ることになったのだが、なにしろ小まつさんが常磐津でまた私が常磐津。そうそう常磐津ばかり語ってはいられない。そこで私が大胆千万にも聞き覚えの「藪《やぶ》医者」という落語を一席|演《や》った。するとこいつがたいへんお客に受けて、楽屋で聴いていた志ん馬もあれだけに演れるならぜひ毎晩一席ずつ演ってくれと言う。そこでこっちもいい心持ちんなって「金明竹《きんめいちく》」「たらちめ」と、いろいろ御機嫌を伺ってると、これがみんなワッワッと受けるんです。これもごく私のためには、いけなかった。
 そのうえ、志ん馬の咽喉が治って今度は近くの八幡というところへ、二人《ににん》会で出かけていった。このときには毎晩二席ずつ演るので演題《やりもの》に困って、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」。あの大序の※[#歌記号、1−3−28]|嘉肴《かこう》ありと雖《いえど》も、食さじされば味わいをしらず――あすこから三段目、殿中の喧嘩場まで、本をそのまま素読みにして講釈のように演ってみたんですが、そうすると、また、これが受ける。あくる晩は四段目、五段目、六段目と演ってみましたが、しめてかかると判官《ほうがん》様や勘平の切腹では田舎の人たちがみんなポロポロ涙をこぼして聴いてくれるんです。とうとうしまいには真打の志ん馬のほうが私に食われ加減にさえなってきました。いよいよ、私のためにはいけませんでした。
 ちょいとここで余談にわたりますが、この八幡の興行でお客様が木戸銭の代わりに
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