きたのである」と永井荷風先生の「里の今昔」にも記されてゐる。

「もし/\、お疲れ筋を寔にすみませんが……」
 揺起しながら阿波太夫。
「私で、阿波太失で、花魁からのお言付けなんで」
 では、この阿波太夫の言葉に拠ると、彼、栄之丞は、前夜、恋びと八つ橋と随分見果てぬ夢を追つて、けさ方かへつて来て、それつきり正体もなく寝入つてゐたのか。
「…………」
 ウ、ウ、ウーと云ふやうな小さな呻き声がして、やがて濡れて美しい目を見開き、しづかに阿波太夫の方を見やつた宝生栄之丞先づ、そのとき第一番にどんな態度をして見せたか?

     二

「…………」
 黙つて、伯龍は、否、宝生栄之丞は、先づ両手で両手を、やがて両肩を、腰の辺りを、次々と揉んだ。
 美しい平顔を、しかめて揉んだ。
 やゝながいこと、揉みに揉んだ。
 あゝ、それがいか許り昨夜《よべ》の八つ橋との逢瀬《あふせ》を、睦言《むつごと》を、絢爛多彩な絵巻物として、無言のうちに悩ましく聴くものゝ心の中に想像させて呉れたらうことよ。
 凝つた朱塗りの行灯の灯《ほ》かげ淡《あは》く、勤めはなれて、目を閉ぢ、口吸はせてゐる艶麗の遊女八つ橋。
 髷の乱れが青白い横顔へ二た三筋ぢ、息喘ませて、しつかりキユーツと相手を抱寄せ、抱きしめてゐる美男栄之丞。
 重なり合つた二つの美しい顔と顔には、じつとり玉の汗がながれ、光つて、折柄、廊下を小走りに行く誰かの足音。
 はるかにシヤリリンと金棒曳き、犬の遠吠、有明ちかい兵庫屋の大屋根を斜めに、一と声、ほとゝぎすが啼いてとほつた。

 わが伯龍の、無言の動作《しぐさ》は、云はぬは云ふにいやまさる、かうした人情本の仇夢を、いと媚《なま》めかしく私たちに覗かせて呉れた。
 聴いてゐながら、さう云つても感慨深く私は、次々といろ/\さま/″\の遠く過去つた日のことを、おもひ起さないわけには行かなかつた。
 先づ、あの、死んだ松崎天民の恋のこと。
 豪放磊落のやうで、じつはおよそ涙脆かつた「倫落の女」の作者天民は、中年に至つて今日も名高い某温泉旅館縁辺のわかい未亡人を烈しく恋したが、彼女をめぐる求婚者には、当時第一流の日本画家があり、早稲田派の気鋭の作家があり、この中に挟まつて、刻々、彼の旗いろは悪くなつたその上に、天民の片眼は義眼で、いつも就眠前、取外しては枕許へ置いておくのが常だつたのを、一夜、偶々
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング