をはじめ、数多の人を殺《あや》めます。『吉原百人斬』のうち、宝生栄之丞住居の一席、尊いお耳を汚《けが》しましたが、この辺で、終りを告げることにいたします」
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伯龍の「吉原百人斬」は、八つ橋と栄之丞が歓語の章《くだ》りより、八つ橋は全然かげ[#「かげ」に傍点]にゐるこの住居のシーンの方が、余程艶麗である点がおもしろいとおもふ。
近世、この「百人斬」を得意とした人に、講談では錦城斎典山、浪曲では春日亭清吉があつた。今日では、講談に馬秀改め小金井芦洲、桃川如燕があり、浪曲で桃中軒鶯童が数へられよう。
人情噺では、御一新のころ、初代小さん(春風亭《しゆんぷうてい》をなのつてゐた)があつて、此を十八番としてゐた。
この小さんは、美音で音曲にも長じてゐたが、ひどい大菊石《おほあばた》でその醜男《ぶおとこ》が恐る可き話術の妙、傾城《けいせい》八つ橋の、花に似た顔《かんばせ》の美しさを説くと、満座おもはず恍惚となる。
さんざ悦惚とさせておいて、
「さてそれに引代へまして、相手の次郎左衛門はと申しますと、とんと私のやうな顔で」
と、ヌーツと自分の菊石面《あばたづら》を突出し、今度はギヨツと寒がらせたと云ふ。
水際立《みづぎはだ》つた演出ではないか。
佐野次郎左衛門百人斬の顛末は、かの「洞房語園」には、ほんの数行、誌《しる》されてあるに過ぎない。
「次郎左衛門、捕手は犬の糞を踏み」と、川柳点ではかう屋上の捕物を詠んでゐる。
「籠釣瓶花街酔醒《かごつるべさとのえひざめ》」として、三世河竹新七が、初代市川左団次のため劇化したのは、明治廿一年五月の千歳《ちとせ》座(のちの明治座)でもちろん講談や人情噺の方が、その以前からあつた。
つゝしんで、神田伯龍の冥福を祈り度い。
[#地から1字上げ](昭和廿六年早春・伊豆古奈温泉客舎にて稿)
底本:「日本の名随筆 別巻15 色街」作品社
1992(平成4)年5月25日第1刷発行
1997(平成9)年2月20日第4刷発行
底本の親本:「あまとりあ」
1951(昭和26)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月16日作成
青空文庫作成フ
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