舌になったかと思われる」と叙したが、まことや、故圓蔵の、ピリオッドのない散文詩集をよむような、黄色い美酒の酔いごこちは、いま想っても、すばらしい。
 明治、大正の噺家で、いくたり、あれだけの飄逸があろう?
 この日は昼席の有名会で、我が圓蔵はたしか「八笑人」をやった。
 喋っているうち、だんだん秋の曇り日が暗くなりだして(その頃、鈴本は、今のところの向こう側にあって、二階と三階とを寄席にあてているこしらえ[#「こしらえ」に傍点]だったが)白い障子が時雨《しぐれ》れてきた[#「時雨《しぐれ》れてきた」はママ]。
 圓蔵の顔がしばらく、暗く、うすらかなしく、その中から、「八笑人」の、あの仇討のひとくさりの「ヤーめずらしや何の某……」。あすこのくだりばかりが、急速なテンポをもって、しきりと我らの胸に訴えられてきた。
 広小路に早い灯花《あかり》がちらほら点いて、かさこそと桜落葉が鳴り、東叡山の鐘が鳴ったが、立つ客とてはひとりもなかった。
 ついでにこの日、小さんは何を演《や》ったか忘れた。圓右が「業平文治」だった。文字花が「戻り橋」を一段語った。右女助《うめすけ》も若手で目をパチパチと「六文銭」を聴かせてくれた。
 思い出の、第三。

 立花家橘之助は、今も六十近くをあの絶妙な浮世節の撥《ばち》さばきに、さびしく薬指の指輪をかがやかせているであろうか? その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって、四谷の左門町に二階を借りていた。
 あたしは、その頃、鴉《からす》鳴く秋のたそがれ、橘之助自身から、そのかみの伊藤博文と彼の女にまつわる、あやしい挿話をきかせてもらったことがある。
 橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれるときもその送別の席上、
「今度、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへお前は年に二回くらい出るようにしろ」
 と、公は言われた。
「御前、それは、ほんとうですか」
 橘之助は、夢かとよろこんで、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで、橘之助高座へ上がると三味が鳴らない。ぺんとも、つんとも、まるで、鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ、橘之助、何十年と三味線をひいて、こんな例は一度もない。昔何
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