ことがあったが、安支那料理屋みたいなペンキ塗りのバラックでそのかみのような下町娘は、金春芸者は、そして白壁は、広重は――もはや、見出せようよしもなかった。
 桑名をながれる揖斐《いび》川の水は、今も秋くれば蒼いのにあの万橘の「桑名の殿様」がもう、東京という都会からは、歓迎されずに亡びてゆくか?と考えたら、それも、決して偶然な運命ではないように想われて、あたしは泪ぐみたいような気にさえなってくることが仕方がなかった――。これがあたしの思い出の第一。

 本郷の若竹の銀襖を、晩夏の夜の愁《かな》しみとうたいしは、金子光晴君門下の今は亡き宮島貞丈君だった。ほんとうにここはまた、山の手らしい、いつも薄青い瓦斯灯の灯の世界であった。めくらで、あし[#「あし」に傍点]の立たなかった、あの小せんを最後に聴いたのが、この若竹の秋の夜だった。
 小せんは、通り庭になっている秋草の植えこんであるあたりを、きっと俥から下りると、前座に負われて楽屋入りした。――それが寄席からうかがわれるので、いっそ、我らに涙だった。
 小せんの上がる前というと御簾《みす》が下りる。蒲団へ座った小せんの四隅を、前座がもって高座に上げる。――やがて、音もなく、御簾が上がる。――小せんは、さびしい面輪をふせて、身を、釈台に凭《もた》らせている……。
 バタバタと鳴る拍手――その拍手さえ小せんにおくるお客たちのは妙にさびしく遠慮がちだったのを、あたしは、忘れることができない。その晩小せんは「近江八景」という、惚れた遊女が果たして自分のところへくるか否か、易者にみてもらう、あの噺をやったけれど、
「おめえの顔なんざ、梅雨どきの共同便所へはだしで入って、アルボース石鹸で洗ったような顔だ」
 云々という独自のクスグリを、ずいぶん身にしみて、聞いた記憶がある。
 小せんは、あれからじき患いこんで、翌《あく》る四月の末に死んだが、最後を秋の夜に聴いたゆえか、自分は小せんの死というと、あの若竹の秋の夜が、あの若竹の打ち水濡れし前栽が、目に泛《うか》ぶ、さらに山の手の寄席の夜らしい耶蘇の太鼓が耳につく……。
 これが、思い出の第二。

 もう、文展のはじまる時分、曇った秋の午後三時を、上野の鈴本で聴いた圓蔵の噺も忘れられない。
 品川の圓蔵と称えられる、先々代の圓蔵である。
 故人芥川龍之介は、この人を讃えて、「からだじゅうが
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