「お前、鳥越のお松さんをお知りだろう」
 圓朝は言った。鳥越のお松は浮世節語りで、もう四十七、八の大年増。デクデクに肥って小金を貯めていると評判だった。
「お松さんならよく知っています」
「お前とは年が違いすぎるが亭主を欲しがってるということだから、話をしてみたら圓太郎さんなんかと断られてしまった」
 面白そうに圓朝は笑った。
 ヤレヤレ。あのデクデクお松に断られりゃ世話ァねえ。嘲るような笑いがおのずと圓太郎も口もとへうかんできた。
「それに新内のお舟。手踊りのお京。手品《づま》の春之助。いろいろ訊いてみたけれど、帯に短し襷に長しでねエ」
「…………」
 フン。どうせみんな先様からお払い箱なンだろう面白くもねえ。心のなかで圓太郎はふてくされていた。
「…………」
「ところがお前、捨てる神があれば拾う神がある。世のなかは面白いねエ。あの、ホラ、常磐津の文字捨ねエ」
 いよいよいけねえ。常磐津の文字捨は五十八だよ。
「あの文字捨に言われて気がついたンだけれど」
 なんだ、お捨婆さんじゃなかったのか。圓太郎はすこし安心した。
「お前、うちの、お八重と一緒になってみる気はないかえ。お八重のほうがお前にぜひとももらってもらいたいと言ってるンだ」
「嘘だ、からかッちゃいけねえ。だってだって師匠そんな」
「イイエ、お八重はお前の芸に惚れている。芸のよさに惚れている。あの子はああいう勝気な女だろう。だから五分の隙もない、なにからなにまで気のつく男はかえってイヤだと言うんだ」
「…………」
「第一、ほかの落語家がヤレ簪《かんざし》だソレ櫛だとあの子の気に入りそうなものを買ってきては御機嫌をとるなかで、お前だけは八重になにひとつ言いかけなかった。そこをまたあの子はたいそうたのもしく思っているンだ」
「…………」
 言わなかったのじゃない。俺なんかとても資格がないと思ってはじめから言えなかったンだ。圓太郎は苦笑した。
「じゃアお前、お八重と一緒になっておくれかえ。不服はないねエ」
 シンミリと圓朝は言葉を重ねた。
「冗、冗談でしょう師匠。不服どころか、あッしはもう……」
 圓太郎はよろこびで身体中を汗にしていた。寝耳に水のうれしさでうきうきせずにはいられなかった。
「万歳――」
「万歳――」
 そのとき潮騒のように万歳の声が。つづいてドンズドンドン。花火がどこかで景気よく打ち上げられた。なんだろうあの騒ぎは。まさかお八重ちゃんと俺が夫婦になるからって祝ってくれるワケじゃあるめえ。
「馬車だ、馬車だ」
「乗合馬車だ」
 多くの人たちの声々が流れてきた。
「圓太郎。乗合馬車が通るらしいよ。私は一昨日煉瓦地で見た。お前さんはまたなにかの参考になるだろうから、サア早く茅町《かやちょう》の通りへ行ってごらん」
 思いやり深げに圓朝は言った。トップリ暮れつくした師走の夜の屋根と屋根との間に覗かれる表通りの明るみを鳥瞰《みお》ろしながら。


  開通万歳

 圓太郎がギッチリ二列三列に詰まった人波のうしろへ立ったとき、ドッとまた浅草見附のほうでどよめきの声が起こり、プープープーと異国的な喇叭《らっぱ》の音色が、憂々たる馬車の響きと一緒に流れてきた。
 思わずグビリと圓太郎は固唾《かたず》を呑んだ。冷たい夜風のなかから、甘い匂わしい黒髪の匂いがスーイ[#「スーイ」に傍点]と鼻を掠めてきた。
 オヤ、傍らを見ると、
「……お八重ちゃん」
 夜目にもクッキリ白い顔が、輪郭の美しさを見せて、大輪の花のように開いていた。
「アラ」
 あわてて彼女はお辞儀《じぎ》をしたが、それッきりうつむいてしまった。いつもの勝気にも似ず、今夜は圓太郎の言葉も耳に入らないほどワクワクしている様子だった。
 プープープププー。このとき喇叭の響きはいっそう近づいてきて、ハイカラな乗合馬車がお客様を巨体へいっぱい鈴鳴りにして走ってきた。スコッチ服の馭者《ぎょしゃ》がキチンと馭者台へ座ってときどき思い出したように片手の喇叭を吹き鳴らしながら、往来を横切ろうとする老人などに、
「お婆さん、オイ危いよ」
 と声高に叱りつけた。いかにも文明であり、開化であった。人々は感激し、熱狂した。興奮のルツボのなかでやたらに喇叭が鳴りつづけていた。
「立派だこと」
 お八重は切れ長の目を潤ませていた。
「素晴らしい、ほんとにこいつア」
 いつかピッタリお八重のほうへ肩を摺りつけるようにしながら圓太郎も、満足そうにつぶやいた。なんとも言えない幸福感でいっぱいだった。背が三寸ほどひと晩のうちにスクスクと伸びたような気がされた。と次の瞬間、彼、圓太郎の素晴らしい芸術欲がモクモク頭をもちあげてきた。
 それは文字どおりの日進月歩してゆく開化日本の象徴のようなこの絢やかな乗合馬車の姿を目に見てだった。見るからに急進国の素晴らしさを誇るような馬のいななき、轍《わだち》の響きを耳に聴いてだった。颯爽《さっそう》と時代の新風が乗合馬車そのものには吹き流れていた。そうしてそれは圓太郎のような男の胸にまでピチピチしたものを投げつけずにおかなかった。瞼が熱く痺れてくるような言いしれぬ興奮だった。感激だった。
 そうだ。来月看板をあげたら、俺は高座で、本物の喇叭を吹いてこの乗合馬車の馭者の物真似をしてやろう。そうしてこんなにも開化した日本の美しい姿を、せめて俺も自分相応の芸のなかで祝福しよう。途端に圓太郎は右手で鞭を打ち鳴らすかっこうをし、左手を喇叭のつもりで口へ当てた。一見、馭者になっていた。やがてラッパの圓太郎と謳われて一世を風靡し、昭和の今日まで圓太郎馬車の名を遺すにいたったも宜《むべ》なるかな。
 プープープーと喇叭の音を口でやりながら圓太郎は、間もなく群がる人波を押し分けかき分け、
「お婆さんお婆さん、危いよ」
 と代地のほうへ駆け出していた。
 あとからお八重が美しく上気しながら、夜霧のなかを同じように駆け出していた。



底本:「圓太郎馬車 正岡容寄席小説集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年8月20日初版発行
底本の親本:「圓太郎馬車」三杏書院
   1941(昭和16)年発8月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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