っておくれでほんとによかったわ。でもこれからもあることよ。みんなそりゃ人が悪いンだからよっぽどあんた気をつけなくちゃ……」
「ウン、ウン」
 おとなしくうなずくと、
「じゃ、ありがとう。またあしたの晩」
 テレくさいのか、プイと立ち上がってそのまま楽屋口から出てゆこうとした。
「ア、ちょっと待って圓太郎さん。明日の朝早く、おッ師匠さんが来てくれって。なんだかお前さんに話があるンですって」
「エ、師匠が。いけねえ。また小言じゃねえかしら」
 日常生活にカラ[#「カラ」に傍点]だらしのない圓太郎。小言ときたら番毎《ばんごと》だった。チョイと心配そうな顔をした。
「サー、なんだか知らないわ。でもたぶん小言じゃないでしょう。もしも小言だったってだいじょうぶよ。そンときはあたし、あやまってあげるわよ」
「ウム。なにぶん頼んだよ」
「引き受けたわ。だから安心して……」
 お八重はニッコリ笑ったが、
「ア、そうそう圓太郎さん、お前さん春のお小遣いないンでしょ。ないンだったらおッ師匠《しょ》さんにおもらいなさいよ。言いにくいンだったら言ってあげてもいいし、もし少しくらいだったらあたしだってなんとかなるわよ」
「ソ、そんなことだいじょうぶよ、お八重ちゃん。俺だってどうにかなるよ」
 あわてて彼は手を振った。
「そう、ほんとにいいの」
「いいンだよ、じゃ明日の朝早くゆくよ。でも今夜のことお八重ちゃん、師匠には黙ってておくれネ。じゃ、さよなら」
 ガラガラと格子を開けて、威勢よく圓太郎は表へ飛び出していった。路地の溝板がカチカチに凍《い》てて、月が青い冷たい光を投げていた。
 路地の出はずれまで早足で行って振り返ると、格子につかまって見送っているお八重の白いクッキリした顔が小さく見えた。ゾクゾクするほど[#「ほど」は底本では「ほと」]彼はうれしかった。ことに今夜の心づくしを考えるとき、涙ぐまれるほどありがたかった。圓太郎は右手を上げて振ってみせた。
 俺はお八重坊が好きなンだ――圓太郎はそう思った。あの女のもっているもののひとつひとつが、みんな血にかよう親しさ懐しさだった。
 でもあの娘は俺みたいなドジ[#「ドジ」に傍点]なブマ[#「ブマ」に傍点]なまぬけな野郎に金輪際惚れてくれるわけがねえ、そう考えるとにわかに日が暮れたように寂しくなった。
 しかたがねえ、高座は一人前以上でも常日頃のことにかけちゃアカラ[#「カラ」に傍点]だらしのねえ俺だもの。夜中の町を駆け出してゆきながら彼は、身体中でベソを掻いていた。


  圓朝の家

 梅咲くや財布のうちも無一物――禅味のある一流の字で認められた山岡鉄舟先生の半折をお手本にして、三遊亭圓朝は、手習いをしていた。浅草代地河岸の圓朝の宅。ツルリと抜け上がった額を撫でながら圓朝は、「梅咲くや」「梅咲くや」となんべんも書いては消し、書いては消していた。その前にかしこまって圓太郎は、いまだ用件も聞かされないままでいた。
 ギイ……ギイ……ギイ……墨田川を滑ってゆく艪《ろ》の音が聞こえて、師走の朝日の濡れている障子へ映る帆の影が、大きく、のどかに揺れていった。その帆影をボンヤリ見ながら、今日はお八重ちゃんはいないンだな。圓太郎はそんなことを思っていた。でも朝早くからいったいどこへ出かけていったンだろう。
「あの……お前、昨日ねェ」
 そのときだった。ムックリ圓朝が顔を上げた。そうして話しかけた。
「……ヘ、ヘイ」
 フイ[#「フイ」に傍点]を食って圓太郎はドキマギした。
「イエ、あの昨日たのんだお座敷ねェ。あれはお前、確かにつとめてきておくれだったのかえ」
 やさしい声で圓朝は、訊ねた。
「ヘイ。あの昨日のお座敷って、あのホレ年寄の養老院の一件でござンしょう。エエあれならもう間違いなく行って参りましたよ。落語家なんか滅多に来ねえから、面白え面白えってよろこんでくれるもンでついうれしくなって、馬力をかけてやりましたよ、五席ばかり」
「五席? おやおやたいそうおやりだったねェ。してなにとなにをおやりだったえ」
「病人の噺にゆき倒れの噺に宿無しの噺だったかナ。ついでに、アアそうそう。泥棒の噺を二席たッぷり聞かせてやりましたッけ」
「…………」
 とうとう圓朝はおなかをかかえて笑い出してしまった。場所もあろうに養老院へ行って宿無しやゆき倒れの噺をすれば世話はない。
「アレ師匠。なんだって笑うんです。気味が悪いなあ」
「なんでもいいんだよ。それより圓太郎、私アお前に昨日越中島の養老院の年忘れに落語《はなし》をやってきておくれとお頼みしたンだよ。だのにお前、とんでもないところへ行っておしまいだったねェ。おまけにそこで泥棒の噺までおやりだったと言うじゃないか。まア、その書付をよーく見てごらん」
 クスクス笑いながら鉄舟居士の半折を脇へやって圓朝は、その下にあった奉書包みの書付をポーンと圓太郎の前へ放った、恐る恐るそれを開いてみて、アッ。さすがの圓太郎もドキンとした。思わず顔色を変えずにはいられなかった。
[#ここから1字下げ]
 今回当監獄所囚人ヘ落語無料長演シ奇特千万ニ付キ、模範囚人苦心調製の七宝製大メダル一箇贈呈ス
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]石川島監獄所主事
          月 日[#地から3字上げ]猪熊秀範※[#丸印、57−10]
          橘家圓太郎殿
 ウヘツ。越中島の養老院だと今の今まで思い込んでいたのに。なんとこれはまた、石川島の監獄所へ余興に行ってきちまったンだ。しかもそんな囚人たちを前にして、泥棒の落語をば長講熱演してきたなんて。
「ヤ[#「ヤ」に傍点]だヤ[#「ヤ」に傍点]だ師匠。道理で養老院だてのに若えおッかねえ野郎ばかりゾロゾロいると思いましたよ。ウルル[#「ウルル」に傍点]、気味が悪い」
 大袈裟に立ち上がって身ぶるいをした途端、
「ア、いけねえ」
 ヒョイと蹴つまずいて圓太郎は、モロ[#「モロ」に傍点]に足もとの土瓶をひっくり返した。ダブダブお茶が流れ出して、みるみるうちに鉄舟居士の半折がシーンと端から濡れていった。
「濡れる濡れる、早くどかしておしまい」
 さしもの圓朝が眉をしかめた。
「ス、すみません。でもだいじょうぶですよ師匠。ホーラ、ちゃんとこの通り持ち上げていますから」
 鬼の首でも取ったように圓太郎は、シッカリ両手で、土瓶のほうを差し上げていた。
「アラ違うわよ、土瓶じゃないのよ圓太郎さん。こっちのこの半折のほうなのよ」
 いつの間に戻っていたのだろう、ソソクサ次の間から走ってきたお八重が赤い襷《たすき》もかいがいしく、圓太郎を突き退けるようにしてビショ濡れの半折へ飛びついてゆくと、濡れた両端をソーッと持ち上げ、縁側まで持っていって、日に当てた。男勝りのクッキリした、横顔が朝日を浴びて、薔薇色にかがやいていた。
「すみません、申し訳ございません」
 が、肝腎の圓太郎のほうはまだ土瓶を差し上げたまま、いつまでもいつまでもあやまっていた。


  恋ごろも

「なんとも彼ともお詫びの申し上げようがございません。これからほんとに気をつけます。御勘弁願います」
 ひと片づけすんだのち圓太郎は、平蜘蛛のようになってあやまった。が、もう圓朝はなにごともなかった前のような顔をして、風雅な火桶に手をかざしていた。
「いいンだよ圓太郎。毎度のことだから、家はもう馴れているけれどもね。よそ[#「よそ」に傍点]様へうかがったときはお気をおつけよ。お前は人一倍そそッかしいンだからネ」
「申し訳ございません」
 圓太郎は自分で自分が怨めしくなっていた。穴があったら入りたい。ほんとにそうした気持ちだった。
「サ、御褒美だよ」
 二十銭貨が五枚、手をついている自分の前へバラバラ圓朝の声と一緒に落ちてきた。
「冗、冗談しちゃいけません師匠、失敗《しくじ》ったのに褒美てえのはないでしょう。そんななにもダレさせるようなことをなさらねえでも」
「ダレさせやしないよ。御褒美は嘘だけれど、実はその一円でお頼みがあるのさ。お前さん、元は大工だろう。ひとつ大工さんの昔に返って一斗|桝《ます》をこしらえてもらいたいンだ」
「一斗桝。ヘーエ、一斗桝てえとあの師匠、一升桝の十倍ですねェ」
「そうだよ」
「一升桝の十倍か」
 クリクリした目をつむってしばらく圓太郎は胸算用をしていたが、
「ヘイ、よろしうござンす。あしたの朝までに間違いなくお届け申します」
「頼みましたよ。ほかにも入用のお金があればいくらでもあげますからネ。遠慮なくそう言っておくれよ」
「承知しました。じゃア師匠、明日の朝」
 思いがけなく春の小遣いにありつけたうれしさ。圓太郎は有頂天になっていた。
「ア、圓太郎。もうひとつ頼みがあるんだ。頼まれついでにもうひとつ。台所へ棚を吊ってッておくれでないか」
「おやすい御用で。すぐ吊りましょう」
 ここが忠義の見せどころと、スッと圓太郎は立ち上がった。菰冠《こもかぶ》りがひとつドデンと据えられ、輪飾りや七五三《しめ》飾りがちらばっている大きな台所へゆくと、チャンと大工道具が置かれてあった。お八重が棚板を二枚持ってきてニコッと笑っていった。
「オイきた」
 その棚板を左手でかかえ、右手で鉄槌《かなづち》を、口で釘を三、四本含んで圓太郎は、荒神様と鼠入らずの間の板壁のところまでゆくと、瞬くうちに棚をひとつ吊りあげた。すッかりこさえあげると、二、三間離れて様子を見、また近づいてはためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]したのちに、ウムウムとうなずくと、
「できましたよ、師匠。じゃアさっそく一斗桝のほうへとりかかります」
 奥の間のほうへ声をかけて、そのまんま帰っていった。
「マー、餅屋は餅屋。さすがにうまいもンだわねエ」
 初めて圓太郎から男一人前の仕事を見せてもらえたそのうれしさ。大きな擂鉢《すりばち》とげて[#「げて」に傍点]がかった丼を三つ四つ、急いで持って出てきた彼女は次々に棚へ載せてみた。と、その途端にだった。ガクンとひとつねじがゆるんだように棚がかしいで、ガラガラガタンと落ちてしまった。擂鉢以外の瀬戸物がみんな板の間でコナゴナに砕けて、あたり一面にちらばった。
 アラッ。無惨な丼の破片やだらしなく落ッこちているまんまの棚板をあきれてジーッと見つめていたお八重は、やがてのことにソッと呟いた。
 いよいよあの人、高座の他はなにをさせてもみんな駄目なンだわ。だからチャンとしッかりしたお神さんがついていてあげなきゃ、一生出世しないと思うわ。そのしッかりしたお神さんに私ならなってあげられるのにと考えて、お八重は思わずドキンとした。こんな自分の心のなかを、もしや誰かに覗かれてはしないだろうか。ソッと辺りを見廻してみたが、もちろん、誰のいるわけもなかった。
 急いで落ちている棚を取り上げた。それからお釜の蓋の上に置かれてあった鉄槌を手にした。
 トン。トン。トン。トン。さっき[#「さっき」に傍点]のところへ持ってゆき、両端へ釘を打ち込むと、難なく元通りに棚は吊られた。続いて擂鉢と別の丼を思い切って五つ六つ載せてみた。やっぱり棚は落ちようとせず、載せただけの瀬戸物がチャーンとして載せられていた。
「ウフッ」
 さすがにお八重はおかしくなった。丼の破片を袂《たもと》を広げた上へ集めながら、クックッ彼女は笑い出した。


  一斗桝とは――

 トヽヽヽヽヽヽ、トン。
 トヽヽヽヽヽヽ、トヽン。
 その頃、圓太郎は新福富町の四畳半ひと間きりしかない自分の部屋で、豆絞りの手拭で鉢巻をし、片肌ぬぎで鉄槌を振りまわしていた。一升桝が七十四個、行儀よく前へ並べられていた。ひと口に七十四個というが、七十四個の一升桝はなかなかの壮観であり偉観だった。
 一斗桝ってのは一升桝の十倍だ。
 理屈ではそうとわかっていても、実地に並べてみないことにはトックリと肯けるものでない。そこで圓太郎は心やすい荒物屋へ行って借賃を払い、これだけ借りてきたのだった。
 借りてきた一升桝を十個ずつ、ズラリと彼は四方へ並べてみた。
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