のこと
「お前のような馬鹿馬鹿しい奴をいつまで三下同様に追い使っていたのは私の間違いだった」
その晩、代地の家で圓朝はまだ青い顔をしたまんまの圓太郎を前にしてシミジミ言った。
「お前のような男は一人前の真打になってはじめて人間の馬鹿らしさまでが人からほめられる。こうやって三下《さんした》でくすぶっているうちはいつまでもいつまでも馬鹿扱いだ」
「…………」
「これは今の日本の国のことにして考えてみても同じだろう。たとえば、国民皆兵――」
言いかけて、ふと圓朝は口をつぐんだ。国民皆兵なんて漢語の意味の、とうてい圓太郎にわかるはずのないことに気がついたからだった。
「つまり国民は皆兵隊さんだというけれど、身体のそれに向かない人はてんでてんでの商売に精を出して、お国へ御奉公をするだろう。お前もそれだよ。前座二つ目のチマチマした修業はやめて、芸一本槍で血の汗を流してゆくよりありますまい」
「…………」
「まったくお前は生まれながらの落語家だ。することなすことひとつひとつがみんな落語になっている。ずいぶんいろんな弟子をおいてみたが、死んだぽん太とお前ほど奇妙な奴は初めてだ」
圓朝は笑った。ぽん太というのは蚊帳《かや》を着物に仕立て直し、その蚊帳の四隅の鐶《かん》を紋の代わりに結いつけてすましていた変わり者だった。
「幸いに今日のお前の失敗も、近江の殿様は下情に通じてお出だから、お笑いになって事がすんだ」
「…………」
アア、よかった。しんから圓太郎はホッとせずにはいられなかった。
「もう今日ッきりお前に前座同様のコマコマした仕事は言いつけないから安心して芸にお打ち込み。いいかえ。今月と言ってももう晦日《みそか》だから、正月の下席からお前は真打だ。両国の立花家で看板をお上げ」
「エ」
圓太郎は耳を疑った。真打に。この俺が真打だ。考えられないことだった。夢のような話だった。ありがてえ。自分から後光がさしてくるような明るい晴れがましい気持ちがされてきた。
「ついてはお前。真打が女房もなしでくすぶっていちゃウダツがあがらないよ。お神さんをお持ち。私がいいのを世話してあげよう」
圓太郎の顔を覗きこむようにして圓朝は、言った。いかにもこの弟子がかわいくてかわいくてならないという風情だった。シミジミその温かい師匠の心持ちが圓太郎の胸に流れ入ってきて、ジーンと目頭が熱くなった。
「お前、鳥越のお松さんをお知りだろう」
圓朝は言った。鳥越のお松は浮世節語りで、もう四十七、八の大年増。デクデクに肥って小金を貯めていると評判だった。
「お松さんならよく知っています」
「お前とは年が違いすぎるが亭主を欲しがってるということだから、話をしてみたら圓太郎さんなんかと断られてしまった」
面白そうに圓朝は笑った。
ヤレヤレ。あのデクデクお松に断られりゃ世話ァねえ。嘲るような笑いがおのずと圓太郎も口もとへうかんできた。
「それに新内のお舟。手踊りのお京。手品《づま》の春之助。いろいろ訊いてみたけれど、帯に短し襷に長しでねエ」
「…………」
フン。どうせみんな先様からお払い箱なンだろう面白くもねえ。心のなかで圓太郎はふてくされていた。
「…………」
「ところがお前、捨てる神があれば拾う神がある。世のなかは面白いねエ。あの、ホラ、常磐津の文字捨ねエ」
いよいよいけねえ。常磐津の文字捨は五十八だよ。
「あの文字捨に言われて気がついたンだけれど」
なんだ、お捨婆さんじゃなかったのか。圓太郎はすこし安心した。
「お前、うちの、お八重と一緒になってみる気はないかえ。お八重のほうがお前にぜひとももらってもらいたいと言ってるンだ」
「嘘だ、からかッちゃいけねえ。だってだって師匠そんな」
「イイエ、お八重はお前の芸に惚れている。芸のよさに惚れている。あの子はああいう勝気な女だろう。だから五分の隙もない、なにからなにまで気のつく男はかえってイヤだと言うんだ」
「…………」
「第一、ほかの落語家がヤレ簪《かんざし》だソレ櫛だとあの子の気に入りそうなものを買ってきては御機嫌をとるなかで、お前だけは八重になにひとつ言いかけなかった。そこをまたあの子はたいそうたのもしく思っているンだ」
「…………」
言わなかったのじゃない。俺なんかとても資格がないと思ってはじめから言えなかったンだ。圓太郎は苦笑した。
「じゃアお前、お八重と一緒になっておくれかえ。不服はないねエ」
シンミリと圓朝は言葉を重ねた。
「冗、冗談でしょう師匠。不服どころか、あッしはもう……」
圓太郎はよろこびで身体中を汗にしていた。寝耳に水のうれしさでうきうきせずにはいられなかった。
「万歳――」
「万歳――」
そのとき潮騒のように万歳の声が。つづいてドンズドンドン。花火がどこかで景気よく打ち上げられた。
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