まい。すぐ近江様へ年忘れの芝居噺のお座敷にゆくンだ。いいかイ、私も着替えてくるから」
 言いつけたまま奥へ入っていった。
 まもなく支度のできた二人は、代地河岸の家を後にした。うやうやしく三つ扇の黒紋付を着た圓朝の後から圓太郎は、芝居噺の道具の入った大きな風呂敷を担いで両国橋を東へ。横網の近江様のお屋敷へと急いだ。△△侯爵邸を俗に近江様という、横網の河岸ッぷちに名物の赤い御門が見えていた。その赤門のくぐり[#「くぐり」に傍点]から圓朝主従は入っていった。
 案内を乞うと、用人がすぐ二人を楽屋にあてられた休息所へ連れていった。が、圓太郎はそこにオチオチしていられなかった。すぐ芝居噺の組み立てにかからねばならなかった。背負っていった大風呂敷を持って彼は、舞台のほうへ出かけてゆくと、定式幕《じょうしきまく》や野遠見《のどおみ》の背景や小道具の稲叢《いなむら》を飾りつけた。それからヘッピリ腰で欄間へあがると、またしても不器用な手つきで鉄槌を握って、今度は立木や灯入りの月や両袖などをトンカチンと打ちつけた。
 こんな高えところへあがってると目が眩んで、ガタガタ足がふるえてしかたがねえや。片手を柱へしがみつくように巻きつけて彼は、いちばん大きな杉の立木のすわりをよくしようと、片手で鉄槌を振りあげかけると、ベリッ。綿入れの袖を小枝へ引ッかけ、ひどい鉤裂《かぎざき》をしてしまった。
 しまった、ギクッとすると手がお留守になり、鉄槌はスルリと指と指の間を抜けて下へ落ちていった。いけねえ重ね重ねだ。いまいましそうに圓太郎は舌打ちした。そのときだった。十ぐらいになる内裏雛《だいりびな》のような品のいい男の子が藤納戸の紋服に手遊びのような大小を差してお供もなく、チョコチョコ駆け出してきた。ヒョイとその子の上へ目を落とすと、
「オイ坊や――」
「…………」
 男の子は立ちどまり、怪訝そうに彼を見上げた。
「いいところへ来てくれたな坊や。すまねえがお前の足もとの鉄槌をちょっと拾ってくンねえな」
 口を尖らし、唇の尖《さき》で圓太郎は鉄槌のありかを指すようにした。
「これか」
 言われるままに男の子は鉄槌を取り上げると、圓太郎のほうへ手を伸ばした。
「それだそれだ」
 そいつ[#「そいつ」に傍点]をグイと伸ばした右足の親指とで挟んだ彼は、
「ありがとよ坊や。アトで小父さんがうんと美味しい南京豆買ってやるからな」
「この馬鹿野郎、いい加減にしろ」
 あっけにとられていた男の子が廊下の彼方へ行ってしまったとき、白いほど青くなって飛び込んできた師匠の三遊亭圓朝だった。
「なんて真似をしやがるンだ圓太郎。世のなかにお前のような不作法千万な男がありますか」
 圓朝はたまたま道具しらべに入ってこようとして次の間からこのていたらくを見たのだった。
「今のはこちらの若様じゃないか」
「…………」
「高貴のお方に鉄槌を取らせ、申すさえあるに、足の指で受け取るとはなんてえことです」
「…………」
「おまけに、坊や後で小父さんが南京豆買ってやる。近江様の若様が南京豆なぞお上がンなさるか。私ァ聞いててハラハラしました」
 光った圓朝の額に冷汗が滲《にじ》み、呼吸づかいがただごとでなく乱れていた。
「あいすみません、実になんともはやどうも」
 ようやく圓太郎にも事の重大性がおぼろげなりに感じられてきて、欄間の上から頭を下げた。
「私にあやまってどうなります。ことによるとお手討だゾお前は」
 情なさそうに圓朝は言った。
「…………」
 が、そう聞かされても圓太郎は顔色ひとつ変えなかった。キョトンと首を傾げているばかりだった。
「冗談じゃねえ、お前お手討だよ」
 圓朝はまたおしかぶせて言った。
「そうですか、お手討ですか、エエ、よござんすとも」
 ますます彼は落ちつきはらっていた。
「アレ、この野郎お手討を平気でいやがる」
 あきれたように圓朝は、
「圓太郎、お前いったいお手討ってなんだか知っているのか」
「…………」
 言下に彼は首を左右に振ってみせた。
「アレだ。よく聞いとけよ。お手討てのはナ、新身の一刀試し斬り。お前の首と胴とが生き別れになるンだぜ」
 世にもおそろしい顔つきで圓朝に言われた途端、
「エ。私の首と胴とが離れる? ソソソそれは。ヒ、人殺し――」
 悲鳴をあげた圓太郎は立ちのまま全身を硬ばらせ、白眼をむき出して両手を差し上げたからたまらない。ガラガラガラガラン、バリバリドタドタドタドタンピシーン。仰向けざまに彼の身体は芝居噺の美しい道具の中へ落っこちてきて、そこらじゅう、滅茶滅茶になってしまった。
「あやまッといてくださいよ師匠、ごめんなさい、ごめんなさいよウ」
 こんなことを言いながら慌てて起き上がった圓太郎は、脱兎のように駆け出していってしまった。


  その晩
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