、後生だからお前、阿母《おっかあ》と仲好くして――といういじらしい訴えなのである。速記では「お前お母と交情《なか》好く何卒辛抱して稼いでおくんなさいよ、よ」と言葉をそっくりおしまいまでいってしまっているが、圓馬は「もう私がいないのだから」辺りから少しずつ言葉が曇りだしてきて、「後生だから……お前」と慄え、「阿母と仲好く……」とまでくるともうあとはそれっきりひそ[#「ひそ」に傍点]と泣きくずれてしまったので、随分ジーンと私たちまでが目頭を熱くさせられてしまったものである。尤も圓朝の速記のはよーく見ると「稼いでおくんなさいよ、よ」とおしまいの「よ」を殊更にダブらせている。そこに圓朝独自の言葉の魔術が発揚され、よひと言で圓馬の場合と全く同様の心理を描きつくしていたのかもしれない。さるにても圓馬のこの表現、「芸」の極意たる序、破、急の世にも完全なる見本みたいなものでこの手法を小説の会話の上へ採り入れることにその後私はどんなに多年苦しんだことだったろう。現に今日も私より稚《わか》い芸能人に芸道上の注意を与える場合、必ずやそれはこの序、破、急の欠陥以外にはないから妙である。そのたび必ず私はこの圓馬のお久の例を話しては心理推移の秘密を悟って貰おうとするものなのであるが、とすると同時にこの序、破、急をおぼえることは、日本画において首《はじ》めに四君子《しくんし》さえよくおぼえ込んだらのち[#「のち」に傍点]のあらゆる絵画にはその手法が織り込まれているから容易《たやす》いというのと同じで、笑う序、破、急、怒る序、破、急、くさる序、破、急等々あらゆる人生を再現する場合の序、破、急ことごとく会得できて、まずまず芸道第一課は卒業できるのじゃないだろうか。少なくとも私自身はそうと信じて信じて止まないものである。
次に長兵衛が佐野槌から借りる百両――その百両という金額に対して、その当時の左官風情に百両はちと大業では……という疑いあるお方ありはしないか。もし、あったとしたら、それは先年私の雑誌「博浪抄」へ寄せた「家人《けにん》その他」の中の左の一章を読んでいただきたい。
拙作「花の富籤」を発表したとき、職人風情で何十両の貸借は大業すぎると、ある批評家さんにやっつけられた。
大業は百も承知、二百も合点である。
あえて岡本綺堂先生の「世話狂言の嘘」に俟《ま》つ迄もなかろう、江戸時代にはお歴々の士分といえども十両以上[#「十両以上」に白丸傍点]の大金は決して肌にしてはいなかった。常に十両金さえ所持していれば、ひとたび君公の命下ったとき我が家へ戻らずして彼らは、蝦夷松前の果てまでもそのまま行かれた。即ち十両盗めば首の笠台の飛んだ所以《ゆえん》、「どうして九両三分二朱」の名洒落ある所以である。
が、その綺堂先生も言われている(名人錦城齋典山もまた同様のことをいったそうだ)。
「あれといい、これといい、今宵に迫る二百両[#「二百両」に白丸傍点]、こりゃ如何《どう》したらよかろうぞえ」
と、きて、はじめて、人生は芝居になる。絵になる。詩になる。すなわち現実の真でなく、芸術の上の真として、大方の胸へ囁き、ひびくものがある。いくらそれが決定的事実であるとしても、
「今宵に迫る十三両と三分[#「十三両と三分」に白丸傍点]」
ではね、と……。
百両の金貰って長兵衛、佐野槌あとに吾妻橋へ。ここで身投げを助けるのであるが、この身投げが「身投げじゃねえか」と訊かれたとき「なに宜しゅうございます」という。くどく事情を訊ねられると、決心した上のことゆえ「お構いなく往らしって下さいまし」という。ほんとうに長兵衛との長いやりとりの間「なに宜しゅうございます」と「往らして下さいまし」とは何べんこの男の口から繰り返されることだろう。すでに死というものを覚悟し切ってしまっている姿と、みすぼらしい長兵衛の様子を見てこの人に何すがれるものかという軽蔑の心持とがまざまざそこから感じとられて、巧緻である。また長兵衛自身にしても場合が場合、助けたいのは山々であるが、さりとて他ならぬ金、遣わないですめばそれに越したことはないので、
「己もなくっちゃならねえ金だが、これをお前に……だが、何うか死なねえようにしてくんな、え、おう」
とこういいもするのである。このいい方もまたなかなか心理的でいいとおもう。最近谷崎潤一郎氏は「きのうきょう」の中で里見|※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]《とん》氏の会話の妙をたたえて、「小説界の圓朝」といわれているが圓朝の巧さはまことこうしたところに尽きているとおもう。では「死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」といい、安心して長兵衛が行こうとすると「また飛び込もうとする」、それを留めて戒め、また行こうとすると、また飛び込もうとする、こ
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