ための不幸といえようが、最後の生母の手引きでの仇討場面でも宮部邸の「憎ッこい」の相助がまたまた雲助となってあらわれてくるのなどいよいよ同様の感が深い。但しこのとき鉄砲を携えた相助のくだりの挿話《ひきごと》で昔は旅人脅しに鉄砲と見せかけて夜半は「芋茎《ずいき》へ火縄を巻き付ける」ものあったと圓朝自身で、こうした事実談を説いているのはおもしろい。生母にめぐりあった直後、きょうの勇齋のことを孝助が新五兵衛に報告すると相変らず話半分しか聞かないでいちいち「そこは巧い」とか「そこのところは拙い」とか「いや、また巧くなった」とかいってしまうのも、じつにこの老人らしくて巧い。繰り返していうが「牡丹燈籠」全巻を通じて最も活き活きと描かれてるのはこの相川新五兵衛ではあるとおもう。
 同時にこの物語を不朽の名作たらしめたは、やはり全篇をつうじてお露お米にカランコロンと下駄履かせた奇抜な構想にあり、紛れもなくあれが素晴らしく一般にアッピイルしたのではあるとおもう。よしや「牡丹燈記」の『お伽婢子』の『浮牡丹全伝』の換骨奪胎であるとしても、どの原作の幽霊も下駄音高くかよってきていはしない。完全に、そこだけは圓朝の独創である。そうしてすべてそのよさに尽きてしまっているとあながちいい切っても過言ではあるまい。しかも私は幽暗の雰囲気を場内一杯に漂わしたといわれるお露お米牡丹燈籠提げて……の最高潮場面の速記を、ほとんどこの文中引用しなかった。しばしば繰り返すごとくそうした場面こそ、全然、速記では駄目だからである。同時に速記というもの、雰囲気によって演者が力量を示したところ以外の、むしろ高座では軽々と我々が聞き逃がしてしまうであろうような描写会話を克明に正直に後世へ遺し伝えている点においてのみ、いかばかりか尊重されていいものだということを、今度はじめてつくづくと感じさせられたからである。
 で、お露お米の怪異場面に関しては再び綺堂先生の『寄席と芝居と』の一節を抄《ぬきがき》させて頂いてよろしくあなた方に想像して頂こう。

 恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて怪談を聴くには全くお眺え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ」と、母は赫すように言った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ」速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。圓朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じてきた。満場の聴衆はみな息を嚥《の》んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するに随って、私の頸のあたりは何だか冷たくなってきた。周囲に大勢の聴衆がぎっしりと詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さな古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右に見返った。今日と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高座の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音が聞こえる。それ等のことも怪談気分を作るべく恰好の条件となっていたには相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
 この時に、私は圓朝の話術の妙ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖しくも感じられない怪談が、高座に持ち出されて圓朝の口に上ると、人を悸《おび》えさせるような凄味を帯びてくるのは、じつに偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代でいわゆる文明開化の風が盛んに吹き捲っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売物にして、東京中の人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとはいえ、確かに圓朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。

    「鏡ヶ池操松影」(江島屋騒動)



「牡丹燈籠に次いで有名な怪談であります」と『圓朝全集』の編者鈴木行三氏は解説で述べておられる。
 私はこの作が「牡丹燈籠」や「菊模様皿山奇談」に次ぐ初期の作であるため、ここに論《あげつら》うことにしたのであるが、いま久々に読み返してみて花嫁入水前後のくだり、江島屋の番頭金兵衛が呪いの老婆にめぐりあうくだり、この二席のほかは圓朝物としてはおよそ不傑作であり、大愚作であることを熟知した。しかもこの二席ある故にかりにも「牡丹燈籠に次いで」云々といわるるものあることをもまた思い知った。宜《ひべ》[#ルビの「ひべ」はママ]なる哉、近年の圓右(二代目)にしても、下って先代圓歌(初代)にしても決してこの二席以外のところは喋らなかったことによっても分ろう。
 まず傑《すぐ》れ
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