る。全篇の人物、活けるがごとく写しだされているのは圓朝の話術が迫真だからで「皮相を写して死したるが如き文」している手合は圓朝の前に愧死《きし》せよとまで激賞しているのである。この序文の通褒《つうほ》でないことはあなた方もこの鑑賞をすすめていくとともに、容易に肯いて貰えるだろうが、それにしても春のやおぼろが『書生気質』一篇に洛陽の紙価を高らしめたは翌明治十八年であるが、年譜に拠ると『春風情話(ランマムープの新婦)』『該撒奇談』『リエンジー』『春窓綺話(レデー・オブ・ザ・レーキ)』『自由太刀余波鋭鋒』などすでに上梓しているし、文学士の称号もまたその二年前、授けられている。おもうにそのころ二十七歳のおぼろは漸《ようや》く新進作家として名声|嘖々《さくさく》たるものありだしたときだったのだろう。
「牡丹燈籠」のモデルについてはこれまた『圓朝』の中で述べつくしたから繰り返さないが、何より構成法として効果的だとおもわされるのは、平左衛門、孝助の因果物語をAとし、お露新三郎の恋と怪奇をBとし、AB二つのこの物語を隔晩に演じ、それぞれクライマックスのところまで持っていっては、お後《あと》明晩と鮮やかな小手投げをくわしている手際である。こうした二つの物語をテレコに運んでいく手法は南北にも黙阿弥にも屡《しばしば》見られる江戸歌舞伎の常套的作劇法であるが、それを話術の上へ、こうまで鮮やかに移し植えたは圓朝独自の働きとしていいだろう。ABをテレコに運ぶ構成の効果は明らかに演劇よりも人情噺の上においてのほうが甚大で、舞台においてはただ幕ごとにガラリガラリと目先が変っていくおもしろさだけであるが、高座の場合は昨夜のつづまりやいかにとAの物語に釣られてきたお客が、翌晩はおもいもかけないまた別のBのおもしろい物語に酔わされ、このBの結末もまたいかにと二倍に吸引されてきてしまうわけになる。同時にはじめてBの物語に魅かれてきたお客が翌晩Aの物語を聞かされてまた感嘆してしまった場合も同様。従ってこれはまさしく当時として極めて有効な八方睨みの客寄せ法といってかなりだろう。
発端はすなわちそのA――若き日の飯島が本郷の刀屋の前で、酒癖の浪人黒川孝蔵を無礼討にするこれがプロローグのように点出されている。そしてこの間何年相経ち申し候ということになり、次にはお露新三郎のくだりとなるのである。萩原新三郎を、飯島の
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