まで弁《わきま》えているわけではなく、その都度しらべてかかる場合も少なくなかったのだろうが、何にしてもこの凝りようが、毎々いうごとくどんなにそこに噺の真実味というものを倍加させていることか。
 然るにそれほどの腕を持ちながら怠けもので勝負事好きの長兵衛は、きょうもすってんてん[#「すってんてん」に傍点]に取られて「十一になる女の子の袢纏を借りて着」てかえってくると、家では家で、年ごろの娘お久がどこへいったか、行方しれずとなって騒いでいるところだった。顔を見るなり女房のお兼が「深川の一の鳥居まで」探しにいったと夫に訴えるのであるが、本所の達磨横丁(いまの本所表町)に住む長兵衛の女房として「深川の一の鳥居まで」というのは、何だか大へんに遠くまで探しにいった感じがよくでている。けだし「深川の一の鳥居」という言葉の中には、たしかにある距離的な哀感すら伴っているとおもうもの、私ひとりだろうか。しかもそれを聞いてから長兵衛が「ええ、おい、お久をどうかして」とか「居ねえって……え、おい」とかにわかにオロオロ我が子の上を追い求めだすところ、まことに根は善人なる長兵衛という人の性格を浮彫りにしているとおもう。
 家出したお久は長兵衛の出入先、吉原の佐野槌《さのづち》(速記本では角海老になっている、圓馬は佐野槌で演っていた、圓朝自身も高座では佐野槌で演っていたとある。但し、先日の六代目のは角海老で、念のため五代目菊五郎伝を見たらこれも角海老となっているのは当時の脚色者榎戸賢二、速記本に拠ったものなのであろうか――)へいっている。しかも呼びにこられて長兵衛がいってみると、お久は父親の借金を見兼ね、この年の瀬の越せるよう自分の身体を売りにきたのだと分る。お内儀はその孝心に免じて百両長兵衛に貸し与え、二年間店へださない故、その間に身請においで、その「代り二年経って身請にこないとお気の毒だが店へだすよ」とこう念を押される。ところで圓朝はこのやりとり[#「やりとり」に傍点]の前にお久の嘆きの言葉をいわせているが、圓馬も先代圓生もハッキリとこの後でいわせていた(圓右のはどうだったろうか、惜しやもうおぼえていない)。ハッキリこればかりは後のほうがいいとおもう。
「手荒い事でもして、お母《かあ》が血の道を起すか癪でも起したりすると、私がいれば」いいけれど、もう私が家にいないのだから、阿父《おとっ》さん
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