石の幼年時代、貧弱極まるものではあったらしいが、この馬場下には講釈場のあったことすら描かれている。もって、知られよ。
浪江、伯父甥の誓約をさせると、早速に重信殺しの手助けをせよと切りだす。そうして聞き入れなければ一刀両断だと猛り立つ。いのちには換えられず、いやいや[#「いやいや」に傍点]正介承諾するが、さてこのあと南蔵院へ戻り、黄昏、落合の蛍見物へ連れだすまでしじゅう正介が口の中で念仏を唱えたり、いうことがしどろもどろになったりするところ、いかにも正介というものの性情あらわれていていい。例えば蛍見物にいっていて重信から酒を飲めとすすめられ「貴方もう[#「もう」に傍点]たくさん上れ、もう上り仕舞だから」といったり、九年の間「やれこれいって下すった事を考えると、私い涙が零《こぼ》れてなんねえ」といったり、またしても「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」といいだしたりする類いに、である。
トド重信は殺される。かねての手筈通り、正介は南蔵院まで駈け戻って、いま先生が狼藉者と斬り合っているとこう伝える。と意外にも寺僧たちは一笑にふしてしまって、つとに先生はかえって本堂においでですという。ギョッとした正介がこわごわ所化《しょけ》の後から従いていき、本堂を覗いてみると、紛れもなく重信はいま落款を書きおわり、「筆を傍へ置き、印をうんと力を入れて押した様子」しかも「正介、何を覗く」とこう叱るのである。思わずアッと正介が倒れると、とたんにかんかん点いていた蝋燭の灯がサーッと消え、この物音に驚いて寺僧たちが駈けつけたとき、はや重信の姿はそこにない。
「昨日まで書き残して出来ずにおった雌龍の右の手が見事に書き上がって、然も落款まで据わって、まだまだ生々と致して印の朱肉も乾かず龍の画も隈取の墨が手につくように濡れて居りますのは、正しく今書いたのに違いありません」
――なんとこのスリルは鮮やかではないか。しかも殺されたばかりの重信がのこりの絵を仕上げにかえってきているところいかにも芸道の士の幽魂らしく、さらにその落款の「朱肉も乾かず」というへんな生々とした実感さ。私はここを圓朝全怪談中の圧巻だとさえおもうのである(ことにこの場面は速記で読んでもぞくぞくと迫ってくる肌寒さがある)。
さて私は「乳房榎」もここまで――いやことに馬場下の小料理屋から、蛍狩の殺し、そうしてこの怪奇までが最高潮
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