んなひ弱い男でも萩原とおみねと人二人殺してずんと本度胸が坐ったといえばそれ迄であるが、いくら剣術の空っ下手な(情人たるお国が首《はじ》めのほうでしきりにそう慨《なげ》いている!)源次郎でもともかくも相手は二本差、あくまでここは少うしおっかな[#「おっかな」に傍点]びっくりになりながら相手の旧悪を暴くので、源次郎、旧悪の前に一言もなく[#「旧悪の前に一言もなく」に傍点]涙金で引き下がる、そのあとでにわかに元気付いて志丈にいまの「二三の水出し」云々を並べ立てる喧嘩過ぎての棒ちぎりのほうが、ずうーっと伴蔵らしくはないだろうか。伴蔵という男、到底この程度の悪党以上にはおもえないのであるが、さてどんなものだろう。ただおもう、私は、この厄払いじみた台詞こそ、じつに書き下ろし当時芝居噺の当時の残り香なのではなかろうか、と。なるほど、芝居噺のことにしたら多少伴蔵の性格を犠牲にしてもここのところ、こう啖呵を切らしたほうがたしかに舞台効果はあるだろう。すなわち冒頭、今日速記にのこっている当初の芝居噺らしき匂いはむしろその「悪い面のほうである」と特記した所以である。
もうこれから後はトントン拍子に、天、孝子孝助に与《くみ》して仇討本懐一途にとスピードをかけさせている。もっともこの辺まできてまだモタモタ筋を運んでいるようでは仕方がないが。
伴蔵志丈はやがて江戸へ。よくある型で伴蔵、志丈もまた己の悪事を知る一人とてまた斬殺してしまうが、とたんに手が廻って伴蔵もまた御用弁になる。どう考えてもこの男、早乗三次以上の悪党ではない。
そのころひとたび江戸へかえってきた孝助が勇齋宅を訪れて仇の行方を占って貰い、併せて年月尋ねる母の行方をも占って貰うと「たしかにいますでに会っている」といわれ、どうしても分らない。折柄、そこへ訪れてきた婦人が母であること分り、さらにその母によってお国の行方また分るのは、いよいよ筋が引き締まってきていい。ただこの母の再縁先の腹違いの娘がなんとお国であることは、あまりにも因縁がくどく不自然でありがたくない。黙阿弥などにもこの種の因縁はザラにあるけれど、江戸風物詩的雰囲気や厄払いの美文でそれがどうやらかき消されている。従って圓朝もまた高座でこれを聴くときは人物風景が浮彫りとされるため、この不自然さがさまでは耳に障らないかもしれず、とするとこれは圓朝にも私たちにも速記なるが
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