朝食(正午)は客の帰ったあと、ともに一堂に会して、すます。
 ダンサーたちの中には配給券のないものもあるが、一日の食費が六十五円で、朝が味噌汁、佃煮、漬け物。昼(三時)がトーストパンまたはうどん。晩(七時)が魚フライとかカレーライスなど、もちろんこれはパレス側のやや負担の由であるが、口の奢っている彼女たちはその以外のお菜を買って食べることももちろんであるし、就寝直前の食事(いわゆるヒケめし)を食べるのも少なくない。何でも場内で間にあうゆえ、外来の業者はもっぱら魚屋、――庭球部あり、芸能(長唄・舞踊)部あり。まずまずこれでは、自由平明、少しも暗い影のささない生活といってよかろう。
 整った医務室も見た。薬の匂いのする生暖かい洗浄室へも案内された。
 五十人の業者は、パレスの中にそれぞれの屋号を持っていて、原さんのは都川。他も、千歳、千草、春廼家《はるのや》と日本風の名が多いが、まれには銀サロンなどというのもある由。
 お客でかよった荷風先生は別として、作家で東京パレスへ交渉を持ったものは、ここに取材の随筆を書かれた坂口安吾さん、ダンサー諸嬢の座談会を司会された玉川一郎さんについでは、私であるという。
 荷風先生にまず「寺じまの記」なる玉の井小品があり、ついで先生は名作『※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東綺譚』を発表されたが私はこの拙文を小手しらべによく『東京パレス』という力作が書けるだろうか。思えば、おぼつかない。
 スケッチの責任をおわった宮尾画伯は、N氏S氏と暗いぬかるみ道をことともしないで、急に元気にいつもの洒落を口にされ出すようになった。
「夜学の灯の感じだね」
 S氏だかN氏だかが、明々と点したパレスの灯を振り返って言った。
 今夜もまた縁なくしてとうとう会えなかったやさしい夢見がちな目の持ちぬしのおもかげを、心ひそかに物足らない思い出で私は追っていた。
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   恵陽居艶話



    風流江戸枕

 いかん。できん。落ちん。
 こうした用語は、私たち旧東京下町人――つまり江戸っ子の家庭にはなかった。
 いけない[#「ない」に傍点]。できない[#「ない」に傍点]。落ちない[#「ない」に傍点]。
 正しくこういう発音をしていた。
 さらに鉄火な発音なら、「いけねぇ[#「ねぇ」に傍点]」「できねぇ[#「ねぇ」に傍点]」「落ちねぇ[#「ねぇ」に傍点]」で、「いかん」「できん」「落ちん」などは、おそらく田舎官員か芋書生の用語として、子供心にも私たちは軽蔑していた。
 ところが星移り、物変わり、春秋ここに四十年――ふと顧みると、いつか私たち純下町人までが、平気で日常用語の中に、この「いかん」「できん」「落ちん」を連発するようになっていたのだから、オドロク。
 これは、この間もくせい[#「もくせい」に傍点]号で不慮の死を遂げた大辻司郎君の、
「ボクは絶対にできんデス」
 などと言うあの同君一流の表現のヒットしたことなども、こうした用語の流行に拍車をかけたのかもしれないが、まさしく亡き岡本綺堂先生が『自嘲』に前書きされた、
[#ここから2字下げ]
トンカツを喰ふ江戸っ子が松魚とは
[#ここで字下げ終わり]
 で、ひそかに苦笑せざるを得ない。
 さて、物語は、我ら江戸っ子全体が「いけない[#「ない」に傍点]」「できない[#「ない」に傍点]」「落ちない[#「ない」に傍点]」と正しく美しい発音を常としていた。もちろん御一新以前の、弓は袋に太刀は鞘、松風、枝を鳴らさなかった御代太平の昔である。
 京橋鉄砲洲の西に松平遠江守の上屋敷があり、一日、そこの奥女中が言った。
「あのゥ、鉄漿《かね》が落ちて仕様がないんです。誰かに鉄漿の落ちない粉を買わせてきてくださいません?」
 鉄漿とは、お歯黒。昔は、歯を黒く染めることが、女性の一つの身だしなみだったのだ。
 ※[#歌記号、1−3−28]誰に見しょとて紅鉄漿つけて、みんな主への心中立て――と、長唄「道成寺」にもある。
「何買い物か、よゥし拙者まさに引き受け申したぞ」
 すると、即座に引き受けてしまったのが、折あしく近頃お国表の尼ヶ崎から江戸詰になったばかりの奥役人。すなわち、「いかん」「できん」「落ちん」人種のパリパリだった。しかしまた彼のことにすると、底意地の悪い、オールドミス揃いの奥女中たちに睨まれては大変と思ったからだろう、さっそく走り使いの男を呼び寄せると、お国訛りもものものしく、
「コレコレ急いで鉄漿の落ちん粉を買ってまいれ!」
 と命令した。
「心得ました」
 とすぐさま飛び出していったその使い。ところがそれっきりいつまで経っても帰ってこない。
(何をしていくさるのじゃやら)
 いよいよお国訛り丸出しで奥役人ヤキモキしていると、やがての
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