感慨深く太文字に書かれたこの明治怪盗の名をしばし相|佇《たたず》んで打ち仰いだものだった。
でも、私はその松平紀義の高座も、五寸釘寅吉の高座もついに聴いてはいない。前者の場合は当時宮永町に住んでいた学友で、今日も支那文学者一戸務君を訪れる途次だったのであるから先より聴くべくもなかったが、後者の場合は私自身ひどく酔っ払っていて、寅吉もいいが、それよりもその暇にもう一軒飲んで歩こうと考えてそうそうに立ち去ってしまったのだったから、不勉強の罪、万死に値する。
松平紀義は私がポスターを見てから間もなくまたまた何かの事件を起こして捕縛され寂しく獄死してしまったが、五寸釘寅吉とて数年後、岩崎栄氏が雑誌「日の出」へ、本人の写真入りで自叙伝風の読み物は紹介されたものの、恐らくや戦前老い朽ちて死に、最早、現世声咳には接すべくもあるまい。いよいよ今日にして彼らの高座に触れておかなかった悔いが深い。
浜町河岸箱丁殺しの花井|於梅《おうめ》が寄席へ出たのはいつ頃だろうか。私の子供の時分(明治末)には、吉沢商会の活動写真(もちろん、今日でいうところの劇映画)へ登場していた。さる老落語家の手記によると、於梅は寄席では主に手踊りなど見せていたらしいが、衰残の大姥桜、せっかくの踊りも脂気が抜けてただいたましく寄席もひと廻り巡演しただけで好評再演というわけにはいかず、最後は郡部の寄席へまで看板を曝《さら》した、とある。とすると彼女の映画入りは、この寄席出演失敗以後のことだったのだろうか。
花井於梅が蜂吉を殺した明治中世にはわが国の裁判ももうよほど進歩していたから大岡育造や角田真平(竹冷)が弁護してやり、従って命まっとうして苦役後、娑婆へも出られたわけだが、明治初年においてもまた一審で断罪ということなく自由に控訴ができたなら、かの高橋お伝も夜嵐お絹もいたずらに首斬浅右衛門の御厄介にばかりならないで命めでたく、それぞれ寄席の高座へ、残菊の花香を匂わせたことだったろう。ましてお絹は当初、鈴川小春と名乗って日本手品の名花一輪、滝の白糸のごとき水芸その他を、江戸末年の各席において常に上演していたにおいておや。同時に、活動写真の発明とわが国への渡来がそれぞれいま十年早かりせば、お伝もお絹もいまだ残《ざ》んの色香なまめかしい出獄早々スクリーンへその妖姿を現して、たちまちに満都の人気を席捲することができ得た
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