のいい草じゃないがすこぶる恚乱《いらん》のたちで、無闇に怒りぽかったから、到底永続きのするわけがなく、私はこれからしばらく高座を退いてしまった。
この時代の権太楼夫人が、戦後、離婚して家庭裁判まで起こし世間を騒がせた女性で、弱り目に祟り目で相前後して権太楼君は記憶喪失症になって病床にあること多年だったが、昨秋からようやく再起、今度再婚もしたと聞く。往事を思えば、同君の回復もまた、速からんことをせつに祈りたい。
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第三話 談譚聚団
これから昭和八年の春、再び夜逃げをするまで私は、滝野川西ヶ原の陋巷《ろうこう》にいた。
すぐ裏が寄席で、夜毎、寄席噺子が洩れ聞こえてくると、寄席へのノスタルジアに全身全魂が烈しく揺《ゆす》られ、この心事をそのまま、のちに私は小説「圓朝」へ写した。
ここにいるうちに前年面識のあった大阪島の内柳屋画廊の女店員でAという娘と文通しだし、家庭生活に絶望していた私は、西下して忍び逢ったが、彼女の日記が寄宿先の伯母に発見され、たちまち郷里である山口県へ帰されてしまった。
昭和十九年夏、戦争非協力文学のゆえをもって私が禁筆の厄に遭っていた時、結婚三周年記念私家豪華限定版の名に隠れて『寄席噺子』なる随筆集をせめても開版した時、彼女と同じ山口県の某寺から一部を申し込んできた女性があった。姓名も筆蹟も違っていたが、十年の歳月は婚後その通称を改めることもあろうし、筆蹟もまたずいぶん変わるものである。「いつまでもおん睦じくあれと祈ります」という意味の手紙が送本後に届いたので[#「届いたので」は底本では「屈いたので」]、チラと私の心にありし日のA女の、仄白い顔が思い出されたことだった。
再び滝野川の陋宅をも失踪しなければならなくなったのは、その頃交りを結んだ小金井太郎一家が転げ込んで来て、毎晩酒乱で太郎が凶刃を揮《ふる》うため、私は神経衰弱になってものが書けなくなってしまった上に、博文館関係の雑誌が不況で二、三急に潰れ、まったく収入がなくなってしまったからである。居候の太郎一家を残して、こちらがドロンをしてしまったのだった。
この時にことごとく蔵書とレコードとを入質して流してしまったが、そのレコードの中に、盲小せんの「ハイカラ」、初代圓右の「五人廻し」、先代文團治の「四百ブラリ」のあったのは惜しんでも惜しみ足りない。
小金井太郎は、今日の勝太郎君の兄弟子で、哀切果敢な江戸前の浪花節だったが、傷春乱酔、半生をまったく棒に振って夭折してしまったのである。彼については[#「彼については」は底本では「波については」]他日小説に書きたいのでここではあまり言及しないが、そののち一年、またまた居を移した杉並の私の家へ同居を強要し、酔余、槍の切尖を振り廻したのでついに杉並署へ連行され、昭和九年一月警察署の表で袂を分かったまま、翌夏、一度市川の映画館で武蔵、伯猿、それに故伯龍の珍しい顔触れで「屋代騒動」の後半を聴くこと間もなく酔中、急死してしまった。こう書くと何かよほど私が太郎に弱い尻でもありそうだが、こっちはあくまで彼の大ファンで、レコードへ世話をし、国民講堂で公演させ、揚げ句に転がり込まれて暴れられたのだからだらしがない。
この杉並の家ではさらにさらにひどい貧乏生活をおくった。文芸講談の大谷内越山翁に師事して、その独演会の前講を演じさせてもらい、話道の開眼をさせていただいたのも、この前後である。もちろん、私は翁の前講を無料で勉強させていただいたので、代わりに翁はいつも帰りには一杯飲ませてくだすったが、初対面が盛夏大下宇陀児氏らと武州飯能の座談会で、そのとき無闇に麦酒ばかり煽ったので、よほどの麦酒好きと私を思われたのだろう、以来厳寒の独演会の帰りにも常に麦酒の御馳走だったのには慄《ふる》え上がった。
昭和九年末、松崎天民氏歿後の雑誌「食道楽」主筆となってから、だんだんまた私の生活は軌道に乗り出し、その頃幾年か絆を断ちかねて苦しんでいた酒場女が、自分の方から私の原稿料を懐中に家出してしまってくれた。けだしわが半生であんな助かったと思ったことはない。お天道さまは見透しで、やっと自分は夜が明けそめた夜が明けそめたとしみじみ嬉しかった。
やがて亡妻を迎える前後に、一、二年続けていた、例月芝の恵智十という古い寄席でひらいていた創作落語爆笑会をおわり、談譚聚団同人となった。
爆笑同人には死んだ燕路、蝠丸(伸治の父)もいたが、出世頭は志ん生、今輔、圓歌、可楽、三木助の五君であろう。モダン雑文家でムーランルージュの女優高輪芳子と心中未遂を諷われ、のちに眠剤《ねむりぐすり》をのみ過ぎて死んだ中村進治郎君も私とともに御同様のつたない一席を申し上げていた。
談譚聚団の方は今も余興団体として残っているが、当時は徳川夢声を中心に雑誌「談譚」を月刊、牧野周一、木下華声、奈美野一郎、吉井俊郎、丸山章治、福地悟郎、東喜代駒、山野一郎に私などが同人格で、東宝小劇場で毎月の公演が催された。この中で徳川君以外に活躍しているのは、山野、牧野両君だけで、他の大辻、井口、西村君らの漫談家も今は鳴りをひそめてしまった(後註――こう書いて一、二カ月後には大辻君は航空事故で惨死した)。
これが私の話術修業の最後で、二・二六事件のあった夏頃私は一切の出演を辞し、すでに禁酒(前後六年間続いた!)もしていたので、再び文学勉強に専念しだした。
三十過ぎての火のでるような文学修業も辛かったが、禁酒六年の精進はどうやら数年後の暮れ、小説『圓太郎馬車』を世に問い、私は作家として返り咲き得た。荊妻《けいさい》と結婚したのは、古川緑波君がその『圓太郎馬車』を有楽座四月興行に上演した翌昭和十六年の、立秋後だった。
先年、拙著『雲右衛門以後』(浪曲史)出版記念演芸会に森三千代女史は、
「私たち夫婦で浪花節のよさを教えると、すぐ小金井太郎と共同生活までしてしまうし、まったく正岡さんという人はハラハラさせる人だけれど、その収穫はこうした一冊になった」
と講演してくだすったが、ほんとうに私に文学の、芸能の、ことに寄席の救いがなかったら、良家に生まれてその家が潰れ、思春期に天涯孤独の身となった自分は、今時分薄志の不良青年となり、与三郎同様、佐渡送りにでもなっていたろう。腕に桜の刺青は入ったが、遠山の金さんのラインで踏み留まることができたのは、再び言うが、文学の、芸能の、寄席のおかげであると言わなければならない。幸いに後継永井啓夫を得た今日、残生の大半を私は寄席文化の普及と探求とに、父子して尽くそう。
わが「寄席青春録」続編の執筆は、今村信雄君にも忰分啓夫にも勧められていたのが、今日やっとこうしてここに完結した。前篇を書いてから、いつしか五年の歳月が閲《けみ》している。
その五年間にも、芸の、人生の悩みは尽きせず、定命近い今年になって、しばらく諸事順調に向かいつつあるが、最早それは青春録どころか、晩春録でもないのだから、ここでは触れまい。かつて村松梢風氏はその随筆中で、自分は生涯に三度廃業しようと思ったが、他に適業がないので、ついにこれで終始したと書いておられた。私もまた、しかりである。故三升家小勝も三度廃業を決意、明治中世から大正初世かけて「ムジナ」の異名で謳われた都々逸坊扇歌(先代)に至っては、七度も廃業しかけたと自伝中に述べている(人生行路の苦しさよ!)。
おしまいに、「落ち」をつけよう、「青春録」らしい落ちを。
それとてすでに数年前になるが、戦後新春、銀座街上でたまたま往年の宝塚スターに呼びかけられたが、老残衰貌、今も女優をしていながらも悪疾あるエキストラの夫をかかえて見るかげもなく、私は目をそらすのに骨を折った。少時、大好きだった初代松旭斎天勝の晩年に会談した徳川夢声君は、
「初恋の人に三十年も経って逢うものじゃない」
と書いておられたが、その時の私の幻滅はまさにまさにそれ以上のものだった。
でも、ただちに自棄《やけ》酒をひっかけるべく、当時の日本には、幸か不幸かまだ自由販売のお酒がなかった……。
底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「艶色落語講談鑑賞」あまとりあ社
1952(昭和27)年12月刊
※「軽気球」と「軽気珠」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月7日作成
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