り出したのが寿々木米若君で、この時は第一回渡米から帰り立ての青年浪曲師だった。劇場前の宿屋の二階で、初夏の朝、眼を醒ましたら、

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│       香取幸枝 │
│正岡容さん江      │
│       春日恵美子│
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 ののぼりが、へんぽんと[#「へんぽんと」は底本では「へんぼんと」]薫風にひるがえっていてびっくりした。香取君は、文豪独歩の遺児国木田虎雄君の最初の夫人で、虎ちゃんが戯れに松竹蒲田のエキストラだった時、同僚として知り合って結婚、のちに別れて松竹関西系の舞台女優としてたまたま来名、一座の春日恵美子とで私にのぼりを祝ってくれたのだった。香取君は薄手細おもての美人で春日君は子供子供した愛嬌のある少女。ともに、のち松竹家庭劇へ参加し、事変の頃は香取君は松竹の社員と江州彦根で結婚生活に入ったと聞いたが、その後の消息をようとして知らない。「鮒鮓《ふなずし》や彦根の城に雲かかる」という私の好きな蕪村の句を誦《よ》むたび、彼女の美しい細おもてを、上海引き揚げ後これも行方のわからない虎ちゃんともども偲ぶのである。この時文楽君と同行していた支那服の麗人が、今の文楽夫人と十余年後わかった。
 翌年の夏の新守座出演は、水死した先代|橘《たちばな》の圓《まどか》が助演で、滋味ある「天災」や「三味線栗毛」の話風は、豊麗な六歌仙の踊りとともに、悠久に私の目を耳を離れまい。今端席にいる富士松ぎん蝶も出演した。この時に一座したのが今の私の妻で、初日に出演のことで大喧嘩してしまった顛末はかつて書いたから、繰り返さない。
 いい落ちとしたが、昭和四年春帰京、高円寺にいた西村酔香君のそばの下宿に旬日いたが、今日では見られない、入り口へ宿泊人の生国と名前を小さく木札へ書いて提示してある、宇野浩二氏の「恋愛合戦」に出てくるような下宿屋で、その田臭に、純東京育ちの私はとうてい耐えられなくて、金馬君のところへ逃げ込んだ。大阪ではいつも旅館の一室ばかりを借りていたから、私にも辛抱ができたのである。
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    第二話 浪曲師たち

 春は虎杖《いたどり》の葉が薄紅色に河原へ萌え、夏は青々と無花果が垣に茂り、秋は風祭へ続く芒野、冬は色づく蜜柑畑と、相州小田原は早川べりに、ずいぶん風流めかした居を卜としても、無教養で醜い安女給との同棲は、しょせんが私のアルコール中毒を深めていくばかりだった。
 日夜、荒れてばかり、私はいた。
 こうした私の荒涼生活の中に、音曲師の小半次が、今の小せん(当時三太楼)が、今の圓太郎(当時百圓)が、いた。三人とも定命に達した今でもなかなかコワイ彼らが、当時はみな三十歳前後だったのだから、川柳点にいわゆる「片棒を担ぐゆうべの鰒《ふぐ》仲間」で、たいてい察してもらいたい。小原庄助さんではないが、朝寝朝酒朝湯はもちろんのこと、彼らのコーチよろしく、勝負事の嫌いな私が、壺皿を伏せて丁半の真似事までやったりした。
 なにしろ家庭がつまらなくて、原稿料を取るとすぐ狭斜街へ、大半以上を費い果たしては帰ってくる私だったのだから、お台所が持つわけがない。酒屋から米屋から肉屋から肴屋、およそ借金だらけにして、たしか昭和七年のはじめ頃か、東京へ夜逃げをしてしまった。北条秀司君の令弟が土地の電灯会社につとめていて、溜った電気代を私の家へ請求にきたが、ついにもらえなかったと、これものちに北条君から聞かされて私は、大恐縮した。
 この小田原の生活の中で、今考えてもおかしくてならなかったことがさらに三つある。ひとつは、私の上京中、師吉井勇が、旅行の帰りに立ち寄られた時のことである。師もあの頃は一年の大半を旅ばかりしていられた時代であるから、その時もどこかの旅のお帰りで、かなり旅塵にまみれていられたにちがいない。そうしたら、留守番をしていた小半次が応接に出て、私の帰庵後こう言ったものだ。
「ねえ先生、先生の留守に大《おお》先生が見えたけれどネ、私の考えじゃいくらか借りにきたんじゃねえかと思うんだ」
 って、あくまで自分の了見から割り出して考えたところが小半次らしくてとんだおかしい。
 ひと夏、湯河原の映画館へ、小半次、三太楼、百圓の三人会で私のスケ(あまりいいメンバーじゃない!)で二日間興行に行ったことがある。古風な馬車で太鼓を叩いて町廻り、私は車上からビラを撒きながら、長田幹彦先生の出世作「旅役者」で、作者が北海道を漂泊中、紙芝居の群れに入って町廻りをしたひとこまを哀しく嬉しく思い出していた。この時不動祠畔の茶店で麦酒を飲んだら、小せんが出てきた蟇《がま》へ石を投げつけ、圓太郎が滝壺へ放尿した。とたんに今まで清冽だった滝の水は、たちまち赤ちゃけた色に変わってしまったので、さすがの面々が真っ青になって、
「ねえさん、この滝の水の色変わったのは……」
 とこわごわ茶店の娘に訊いたら、
「今日はこの上の川で土木工事をしてるんですよ」
 ……出演した映画館は、湯河原だけに泊めてくれた自宅の方に温泉が湧いており、なかなか愉しかったが、もちろんお客は不入り。従って二日目を打ち上げても一文ももらえるお金はないはずを、中年の好人物らしい主人は、忘れもしない五十銭銀貨で二十何円かを番頭役の百圓の圓太郎に支払ってくれた。実演興行にはまったく不馴れな主人は、我々の賃金の方から差し引くべき二日分の税金を、全額自分の収入で支払ってしまったから、こちらへそんなもらい分が増えたのである。その二十何円をおよそもっともらしい顔で財布の中へしまってしまうと圓太郎先生、
「御主人、我々落語家は正直だが、旅を行く万歳(当時はいまだ漫才とは書かなかった)や安来節にはひどい奴があるからお気をおつけなさい」
 とヌケヌケと言ったものではないか。どっちがひどい奴だかわかりゃしない。凱歌を上げて一同が近くのそば屋へ、冷めたい麦酒で祝杯を上げていたら、小半次だけは浮かない顔、
「百さん(圓太郎の前名)、その金だけは気の毒だから返したらどうだえ」
 他の顔を見るとすぐ「五十銭(戦後は暴騰して百円になった!)くれ」と手を突き出すくせに、一番彼が気の弱いところのあるのも、浪曲界の元老浪花亭峰吉を実父に、先代木村重友を養父に、しょせん名家の生まれだからか。
 報知講堂で文芸落語旗揚げ祭をやった時には、前述の関係から峰吉老をはじめ、先代三語楼、今の正蔵(馬楽時代)、権太楼、春日清鶴、今の玉川勝太郎(次郎時代)諸君が助演してくれた。これも小田原時代だった。
 小田原の清楽亭という寄席では、次郎時代の玉川勝太郎君と二人会も演った。いまだ牧野吉晴君が青年画家で、即興の浪曲自伝を唸り、夭折した詩人の宮島貞丈君は、顔面筋肉を伸縮させるだけの百面相を演り、大河内から栗島すみ子、酒井米子まで巧みに見せた。これはのちに私が推称して、「映画時代」編集長たりし古川緑波君を激賞せしめたが、これをそっくり覚えて今日も高座で活用しているのが、柳家三亀松君である。
 私が関東浪曲の甘美な感傷を溺愛するようになったのが、前に書いた大正十五年浅春、長崎に少女期の志賀暁子君を訪れて、滞留中の金子光晴、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。
 ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たるべき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。
 しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。
 柳家権太楼君と駒形の動坂亭へ立て籠ったのは、昭和七年の夏だったろうか。一座はいま中風になった二世三語楼や、戦後高齢で郷里高崎でみまかった蜃気楼龍玉老人や、今の正蔵君も時にスケにきた。近頃ラジオ研究の俳優グループに名をみいだした守登喜子君も、当時はいまだ若く妖婉で、「かんかん虫は歌う」(吉川英治原作映画主題歌)をレコードで踊ったりして、一味、新鮮な匂いを漂わせた。吉井師が牧野宮島両君と桟敷へ現れたり、久保田万太郎、村上浪六、岩田専太郎、野村無名庵諸家も、当時近隣におられたので、客席にそのお顔を見た。一夜、いつかかいた「マリアの奇蹟」という西洋芝居噺で、牧師が「罪を憎んで人を憎まず」と盗人をさとすのを、「人を憎んで罪を」と反対に言い、正直に「まちがいました」とさらに訂正したので客席が沸《わ》き、大失敗をしたことがある。以来私はこう悟った。たいへん人が悪いようだが、リズミカルに言えたまちがいならなまじなまなか訂正なんかしないで、堂々とまかりとおってしまうことである、と。現に邑井貞吉翁は、「頼政|鵺《ぬえ》退治」に音吐朗々あの調子で「時鳥がホーホケキョウと啼いた」と演ってのけたことがあったが、客はほとんど気がつかなかった。反対に「伊井直人」で「薙刀《なぎなた》の尻手」と言うべきを、槍同様に「石突き」と言ってしまった時、堂々と客席を睨め廻して、かえって客の方がまちがったかのような錯覚を与えた上、悠々そのあとを講じ続けたは、近年では田辺南龍老あるばかり。あの平常がおとなしい南龍老にしてこの大胆、この気魄と、少なからず私はおどろき、敬服したことである。
 私は、この時分権太楼君が独立していたので、旧師三語楼氏へ柳家を返上し、暁亭を樹立せよと極力勧めたことがある。すなわち、暁の鐘がゴンと鳴るという洒落である。しかるに、むしろ野暮な闘士に近い同君は、
「今に落語家も柳家Aだの、柳家Bだのができましょうよ」
 とあくまでこの点モダーンボーイだった。幸いにして敗戦後の今日も、落語界にはむかし家今松だの、山遊亭金太郎だの、鶯春亭梅橋だのと、風流めかした芸名のみが栄えているのもまことにめでたく、A介B介などという名はかえって漫才の方に輩出しだした。
 この動坂亭の興行はなかなかに有望だったが――と書いて今小憩し、ラジオへスイッチを入れたら、山野一郎君の「なつかしの活弁ジンタ」が音楽入りで「ラジオ東京」から放送され、私は目裏を熱くして聴いた。かくてわがこの回想録には、いっそうの拍車が掛けられることだろう。――では、どうして、その興行が中絶してしまったかといえば、当時の私が性格破産したアルコール中毒者なら、若き日の権ちゃんがあれでいて「天災」の紅羅坊名丸
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