宇陀児氏らと武州飯能の座談会で、そのとき無闇に麦酒ばかり煽ったので、よほどの麦酒好きと私を思われたのだろう、以来厳寒の独演会の帰りにも常に麦酒の御馳走だったのには慄《ふる》え上がった。
昭和九年末、松崎天民氏歿後の雑誌「食道楽」主筆となってから、だんだんまた私の生活は軌道に乗り出し、その頃幾年か絆を断ちかねて苦しんでいた酒場女が、自分の方から私の原稿料を懐中に家出してしまってくれた。けだしわが半生であんな助かったと思ったことはない。お天道さまは見透しで、やっと自分は夜が明けそめた夜が明けそめたとしみじみ嬉しかった。
やがて亡妻を迎える前後に、一、二年続けていた、例月芝の恵智十という古い寄席でひらいていた創作落語爆笑会をおわり、談譚聚団同人となった。
爆笑同人には死んだ燕路、蝠丸(伸治の父)もいたが、出世頭は志ん生、今輔、圓歌、可楽、三木助の五君であろう。モダン雑文家でムーランルージュの女優高輪芳子と心中未遂を諷われ、のちに眠剤《ねむりぐすり》をのみ過ぎて死んだ中村進治郎君も私とともに御同様のつたない一席を申し上げていた。
談譚聚団の方は今も余興団体として残っているが、当時は徳川
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