た》えないけれども、もういっぺん今日の少うし間延びのしすぎた話法でなく、あの日あの頃の弾みきった呼吸を取り戻してもらいたいものだと思ったことだった。両者ぐんぐんと売り出していくその人気は、のちの歌笑、痴楽を[#「痴楽を」は底本では「痴薬を」]上超すものがあった。
急逝して私を哭《な》かしめた四代目小さん君はその頃馬楽で、手堅い渋い話術の中に警抜な警句を言い放ち、一部の寄席ファンをして随喜せしめていた。睦会の方には、いまの柳橋、柳好、小文治、文楽君が若手四天王で売り出していた。落語界というところ、明治中世に柳、三遊と別れて以来、(私はその柳、三遊最終期以来の寄席修業者だったが)柳が女子供向けの色物たくさんで、三遊が本格話術を看板の渋向き、この二つの伝統は不思議に今日といえども継承されている。大正末年には落語協会が三遊派的で、睦会の方が柳派的。現今では文治、文楽、志ん生らの落語協会が三遊派的で、柳橘、柳好、小文治、今輔の芸術協会が柳派的である。しかも圓朝以来の本格話術をもって鳴っていた三遊派の方にへらへらの万橘やすててこの圓遊が現れ、小さん、圓右君臨していた落語協会の方から三語楼、金語楼
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