そこへ微醺《びくん》を帯びて入ってきた吉本の支配人でTという中年の男が、京都へ出てもらう代わりには圓馬師匠へ無条件に詫びてくれんと……という条件を持ち出してきた。三木助も春團治も借金があったが、前述したよう圓馬のみは借金を返したあとで、押しも押されもしない名実ともに大看板。吉本も圓馬の無理は一も二も三も聞いていなければならなかった時代だった。同時にあの前後数年間が、師父としても最後の全盛時代であり、吉本としてもまた故人へ空前絶後の儀礼を尽くしていた時代だったと言えよう。だからTもまたこうしたことを私に対して言いだしてはきたわけなのだった。が、私のことにすると日夜師父の芸が恋しくて恋しくてならず、師父にもまたじつに逢いたくて逢いたくてならずこれほど敬慕しているのが少しもわかっちゃくれず、そもそも芸のわからないのが根本の原因で世帯をしまうようになった我々を、その女の方へばかり芸人のくせに味方をして、一にも二も正岡が悪い悪いと簡単に私を抑えつけてしまおうとする圓馬一家の態度がどうにも不平で承服できなかったのだ。で、詫びるのは断じていやですと言下に断ったら、酔っているせいもあってだろうTは、私に対して、そんなことを言わずあっさり詫びてうちの寄席へ出る方がいい、その方が君の地位がぐっと上がる、第一そうすりゃこんな襟垢《えりあか》のついたものを着ていないでも――と私の紺絣対服(例の軽気球の高座着は世帯を畳むとき置いてきてしまったからもうなかった)の襟のあたりをスーッと手でしごくようにした。私は今もありありその時のTの手の重味というか、触感というか、それを激しい屈辱感とともに肩先へ蘇らすことができる。なるほど、その時の私はさびしい紙衣《かみこ》姿であったろうが、それは家庭のこと、妓のこと、精神的不如意のためのアルコール中毒ゆえで、心境さえよくなったら、明日からでも精一杯に働く自信は全身に満ち満ちていたのだ。ましてその時、妓は一時遠国へ働きに行っており、襟垢のつくまで私が一つ紺絣を着ていたというのもじつは当座のその妓の生き形見であるためだったのだから、いっそう烈しい烈しい侮辱を感じ、憤然とせずにはいられなかった。もちろんその晩Tには諾否を与えず、黙々としてそのまま私は花月の楽屋をあとにすると、翌日、私は天王寺に桂三木助氏を訪れて、一切を話し、身の振り方を相談した。かねて私の家庭の不幸を密かに憐れんで橋本(圓馬の姓)にも似合わないと言っていてくれた三木さんは、言下に明答を与えくれた。曰く、あなたがあんたの師匠の吉井勇先生だけの看板やったら吉本は橋本に謝罪しろなどと言わんと黙って出演させまっしゃろ、それを謝罪してくれ言うのは、まだまだあんたが売り出しておらんのや。サここから速達で吉本へ断り状出して、あんたは故郷の東京へ去《い》んでえらい人になんなはれ。なるほどなるほどなるほどと思ったので、その場で三木さんの言うとおりにして出演断りの速達をTへ宛てて出すと、旬日ののち何年振りかでひとまず私は東京へ帰った。三木さんのこのひとことなくんば私は永久に帰京のふん[#「ふん」に傍点]切りがつかないじまいでいただろう。今に私が先代桂三木助氏を、わが人生行路の恩人のひとりとするゆえんである。
この前後、師父圓馬と難波駅近くで口論格闘して号泣したこと、霙《みぞれ》の一夜中の島公会堂で大辻司郎君と乱闘したことはじめ、帰京後何年かの落語家生活までを具《つぶ》さに書いてそれで前後四回に纒め上げるつもりでいたところ、どうしてどうしていざ書いてみたら私の腹案の半分も来ないうち、予定の四回が終わってしまった。でもこれ以上あまりながながと続けることも御迷惑であろうと思う。
※[#歌記号、1−3−28]あまりながいは皆さんお飽き、ちょいとここらで変わりまアす――華やかなりし昔日の音曲師は、三好も万橘もかしくも鯉かんも勝次郎も歌六も、その高座の最後において楽屋の大太鼓、小太鼓賑やかに、よくこんな甚句を諷っては、瓢々と下りていった。いでや私もその顰《ひそみ》に倣《なら》って、以後はまた他日を期することとしよう。
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続わが寄席青春録
第一話 正蔵君 金馬君 米若君
私が正式に東京に帰ってきたのは昭和四年の春だった。つまり四年めに故郷の土を踏んだわけであるが、宝塚スターの恋愛時代だった大正大震災前後も一年の半分は下阪していたのだったから、今度の帰京はずいぶん久しいもののように思えた。
もっともその前年の秋あたり、先代三木助に言われる前から、うすうす帰京のことは考えており、当時は博文館から「文芸倶楽部」「講談雑誌」の二誌が発行されていて、前者は横溝正史君が活発に編集しており、後者も師、吉井勇をはじめ長田秀雄、長谷川伸、畑耕一、サトウハチロー諸
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