からムシャクシャしてしごとができないとすぐ収入が絶え、前借の利かなくなる時だって始終あり、しかもその時も舌のもつれ手の痺れの方は日々規律面にやって来るのだからまったくどうにもやりきれなかった。私は友だちの顔の利く新本屋から本を買っては友だちの帳面につけさせ、こちらはすぐそれを古本屋で金に代え、やっと一杯にありつくなんてこともあれば、温厚な人格者たる某大阪文化研究者の書庫から愛蔵の稀書を借り出して売り払っては酒に代えてしまったこともあった。もっとも前者の方は計画的だったが、後者の方は決して決してそうではなかったことを神かけてここに誓っておく。「花色木綿」ではないが、それこそほんの出来心だったのだが、結果においてはその罪悪は同一で、だから世のポン中毒者の犯罪を咎《とが》める権利は未来永却私にはない。二十余年後の今日もほんとうにいけないことをしたものだと心から申し訳なく思っている。この物語の冒頭において私の青春は暗黒だったと書いたけれど、事実このようにわが青春は、二十代は、惨憺暗黒なるものだったのだ。この頃芸術と人生の上に深い大きな懊悩があるとかえって何日か私は酒を断つのは(これを書いている今日もまた幾日かずつの第三次禁酒を断行している)青春惨酔の日の己れを思って、せめて今日、「酒」という己れの心の卑怯な、逃げ道を断って、まっとうに文覚那智山の荒行のごとく自分自身を責め、さいなみ、鍛えたいとは思うからである。もちろん、こんな精神的悲運の連続だったから私に二千円の身代金のオイソレとできようわけもなく私はひたすら日夜を焦燥悶々し続けてばかりいた。
 以上のうち私の自殺未遂の時がちょうど北村兼子君との「ハムレット」吹き込み前後で、妓との馴れそめが楽天地時代、世帯を畳み、また圓馬一家との確執が金竜館出演時代、アルコール中毒に悩んだのがこれから書く生涯にたったいっぺん南地花月、北の新地花月この二つの吉本系の檜舞台の寄席へ出演した時代前後数年のことである。
 さて私の吉本出演は、昭和四年の二月頃だったのではなかろうか。どうもこのあたりからこの物語の終末に至るまでの月日がおよそハッキリわからなくってしまっていることを今これを書きながらもしきりに感じるのであるが、けだし忌なこと続きだった私の半生の中でもとりわけ忌だった精神生活の部分であるから、多分心の中で早く忘れたい忘れたいと思っているためいっそう年月の記憶がアヤフヤになってはいるのだろう。で、かりに早春としておくが、吉本系の寄席へ金語楼君、大辻司郎君が十日間出演していたのが、そのうちのひと晩だけ大辻君が前から受け合っていた警視庁の余興に帰らなければならなかった。で、急にその南と北のそれぞれの花月へ代演をしろという白羽の矢が、突如この私に立ったのである。金語楼君はその時南も北も私よりは遅い出番で、どちらの寄席も私の直前にはのちの五代目[#「五代目」は底本では「五台目」]松鶴君(その頃枝鶴)が登場し、まくらで如才なく口上を言ってくれた。そのあとへ上がって私は「南極のラジオ」を二十分演じた。南の方が和洋合奏で、お客も派手なので演りよかった。北は伴奏が和楽ばかりの上にひねったお客いわゆる笑わざるをもって大通とするお客が多かったから、南よりやや演りにくかったが、それとても楽天地や金竜館のお客に比べれば天地雲泥の相違だった。嘘もかくしもなくその晩私は、ここで、というのとはこうしたお客の前で、ひと月ふた月勉強させてもらえたならば、どんなに自分の腕が上がるだろうとしみじみ考えさせられたことだった。なにしろ伴奏が本格で、お客がまた本筋だったから、それに助けられてまずまず私の噺も実力以上によく演れたのだ。とこう書いたらたまたま当夜北の花月の桟敷に来合わせておられた故渡辺均君は、なんだちっとも巧くもなんともありはしないや、あの晩の君の噺は、と冥途からこう言われるかもしれないが、均君よ、私の平常落語以外の小屋で演っているときよりは、という意味なのであるから、なにぶん諒解してちょうだい。呵々。それにしてもたった一夜代演のこの私を、吉本では大きな立看板にじつにいろいろと口上文を書き、華々しく飾ってくれた。大局から見ては落語界に絶対プラスしなかった吉本ではあるが、この点の商売熱心だけは、再びここで特筆称揚しておきたいのである。
 私の大辻君代演の一夜はたまたま吉本への手見せとなり、吉本でもどうにか潰《つぶ》しの利く高座だと思ってくれたのか、来月、京都の新京極の富貴で金語楼、小春團治、九里丸とあんたで新人会を演るさかい出演しなはらんかと言われた。こちらはお客のよさに相恰を崩している折であるから、よろしい、でましょうと給金も決めずに受け合って、うちうち、来月を楽しみにしながら、ある晩、南の花月の楽屋へ行って遊んでいると、たまたま
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング