、小三治(正蔵)登場し、今また渋いとか地味だとかいわれる文治、文楽の落語協会の方からかえって、歌笑を世に送り出した。私はこの原因の那辺に存するかを、いまだよく検討していないのであるが、明治の三遊派の昔以来、本格派の方へとにかく爆笑的存在の落語家の次々に誕生してくるところまで、同じく伝統を守っている点はすこぶるおもしろいと思う。言い落したが、柳家三語楼君の全盛はこの時代がまさに頂点で、いつも自動車の爆音けたたましく楽屋入り。同君の人気は盲の小せんが夭折した大正中世から次第次第に上昇し、大震災直前いよいよ華やかな存在とはなっていた。
私が前述の宝塚の歌姫と別れた頃、三代目小さんはしばらく老衰しだし、しばしば高座で噺をまちがえるようになった(圓右は二世圓朝を襲名したまま倒れ、これにいなかった)。忘れられない痛ましい思い出は、帝国ホテルで松井翠声君が仏蘭西から帰朝した歓迎会が華やかにひらかれた席上でのことだった。私は徳川君にはもう別懇で(ばかりか半年後、東京を売って漂泊の途に上る時は同君と金語楼君とに旅費その他を恵まれた!)いたけれど、松井君には、この会でが初対面で、同君はその頃私が第一次「苦楽」誌上へ松井君のお祖父さんである先々代五明楼玉輔の自作人情噺「写真の仇討」についていささか書いたので、あなたによって祖父のことをいろいろ教えられたとにこやかに語られたことを記憶している。思えばあの頃も今日も少しも変わっていない若い若い松井君ではあることよ! 小山内薫氏がテーブルスピーチをされ、他に東健面、鈴木伝明、英百合子君らがいたように覚えている。三代目小さんは、この歓迎会の余興に来て「高砂や」を演り、いまだ前の謡のけいこの内に突如終わりの御詠歌をうたい出し「親類一同が婚礼に御容赦」と落ちを言ってさっさと下りて行ってしまったのである。多くの聴衆は夢中で拍手していたけれど、私はあんなにヒヤリとさせられたことはなかった。同時にあんなに暗いさびしいはかないものを感じさせられたこともまたなかった。左翼作家には珍しい抒情詩人しげる・ぬやま氏が、
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じゃんこ面の小さん狂へり梅の頃
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となげかれたのは恐らくやその頃のことであったろう。
先々代正蔵と今日の三木助(当時は小柳)両君以外に、金語楼、小三治君が私の交友録の中に加わりだしたのもこの時代だ
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