「しゃっくり政談」を客席からじつに愉しそうに呵々大笑して聴いていられたことを、あえて特筆しておきたい。
 年少から寄席を愛《め》で、落語を愛してきた私のその頃のメモは、また他日稿を新たとすることとして、ここではあくまで青春感傷の日の私を中心に大正大震以後から昭和戦前までの落語界の人々について語ってみたいが、その頃東京の落語界には三世小さん、先代圓右、先代志ん生、三語楼、小勝が落語協会の巨頭で、今の左楽、先代|燕枝《えんし》、華柳、先々代柳枝、先代助六、先代今輔、先々代正蔵、先代圓生、当代文治が睦《むつみ》会に参加していた。金語楼と先代正蔵が小三治で前者に属し、まさしく鎬《しのぎ》を削って売り出し中だった。金語楼君の「落語家の兵隊」のごときたしかに優秀な軍隊軽蔑落語であって、徴兵に閉口するまくらのごとくじつに痛快そのものでおかしく、私は今にその一言一句を記憶しているし、正蔵君の「源平」や「お七」のことに籠の鳥を歌う前後の愉しさも、晩年の数倍活気があっておもしろかった。年来の友人だったからあえて正直に書かせてもらうが、晩年の同君は生活的に余裕ができすぎ、それは個人としてはもちろん慶賀に堪《た》えないけれども、もういっぺん今日の少うし間延びのしすぎた話法でなく、あの日あの頃の弾みきった呼吸を取り戻してもらいたいものだと思ったことだった。両者ぐんぐんと売り出していくその人気は、のちの歌笑、痴楽を[#「痴楽を」は底本では「痴薬を」]上超すものがあった。
 急逝して私を哭《な》かしめた四代目小さん君はその頃馬楽で、手堅い渋い話術の中に警抜な警句を言い放ち、一部の寄席ファンをして随喜せしめていた。睦会の方には、いまの柳橋、柳好、小文治、文楽君が若手四天王で売り出していた。落語界というところ、明治中世に柳、三遊と別れて以来、(私はその柳、三遊最終期以来の寄席修業者だったが)柳が女子供向けの色物たくさんで、三遊が本格話術を看板の渋向き、この二つの伝統は不思議に今日といえども継承されている。大正末年には落語協会が三遊派的で、睦会の方が柳派的。現今では文治、文楽、志ん生らの落語協会が三遊派的で、柳橘、柳好、小文治、今輔の芸術協会が柳派的である。しかも圓朝以来の本格話術をもって鳴っていた三遊派の方にへらへらの万橘やすててこの圓遊が現れ、小さん、圓右君臨していた落語協会の方から三語楼、金語楼
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