夢声を中心に雑誌「談譚」を月刊、牧野周一、木下華声、奈美野一郎、吉井俊郎、丸山章治、福地悟郎、東喜代駒、山野一郎に私などが同人格で、東宝小劇場で毎月の公演が催された。この中で徳川君以外に活躍しているのは、山野、牧野両君だけで、他の大辻、井口、西村君らの漫談家も今は鳴りをひそめてしまった(後註――こう書いて一、二カ月後には大辻君は航空事故で惨死した)。
 これが私の話術修業の最後で、二・二六事件のあった夏頃私は一切の出演を辞し、すでに禁酒(前後六年間続いた!)もしていたので、再び文学勉強に専念しだした。
 三十過ぎての火のでるような文学修業も辛かったが、禁酒六年の精進はどうやら数年後の暮れ、小説『圓太郎馬車』を世に問い、私は作家として返り咲き得た。荊妻《けいさい》と結婚したのは、古川緑波君がその『圓太郎馬車』を有楽座四月興行に上演した翌昭和十六年の、立秋後だった。
 先年、拙著『雲右衛門以後』(浪曲史)出版記念演芸会に森三千代女史は、
「私たち夫婦で浪花節のよさを教えると、すぐ小金井太郎と共同生活までしてしまうし、まったく正岡さんという人はハラハラさせる人だけれど、その収穫はこうした一冊になった」
 と講演してくだすったが、ほんとうに私に文学の、芸能の、ことに寄席の救いがなかったら、良家に生まれてその家が潰れ、思春期に天涯孤独の身となった自分は、今時分薄志の不良青年となり、与三郎同様、佐渡送りにでもなっていたろう。腕に桜の刺青は入ったが、遠山の金さんのラインで踏み留まることができたのは、再び言うが、文学の、芸能の、寄席のおかげであると言わなければならない。幸いに後継永井啓夫を得た今日、残生の大半を私は寄席文化の普及と探求とに、父子して尽くそう。
 わが「寄席青春録」続編の執筆は、今村信雄君にも忰分啓夫にも勧められていたのが、今日やっとこうしてここに完結した。前篇を書いてから、いつしか五年の歳月が閲《けみ》している。
 その五年間にも、芸の、人生の悩みは尽きせず、定命近い今年になって、しばらく諸事順調に向かいつつあるが、最早それは青春録どころか、晩春録でもないのだから、ここでは触れまい。かつて村松梢風氏はその随筆中で、自分は生涯に三度廃業しようと思ったが、他に適業がないので、ついにこれで終始したと書いておられた。私もまた、しかりである。故三升家小勝も三度廃業を決意、明治
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