太郎は、今日の勝太郎君の兄弟子で、哀切果敢な江戸前の浪花節だったが、傷春乱酔、半生をまったく棒に振って夭折してしまったのである。彼については[#「彼については」は底本では「波については」]他日小説に書きたいのでここではあまり言及しないが、そののち一年、またまた居を移した杉並の私の家へ同居を強要し、酔余、槍の切尖を振り廻したのでついに杉並署へ連行され、昭和九年一月警察署の表で袂を分かったまま、翌夏、一度市川の映画館で武蔵、伯猿、それに故伯龍の珍しい顔触れで「屋代騒動」の後半を聴くこと間もなく酔中、急死してしまった。こう書くと何かよほど私が太郎に弱い尻でもありそうだが、こっちはあくまで彼の大ファンで、レコードへ世話をし、国民講堂で公演させ、揚げ句に転がり込まれて暴れられたのだからだらしがない。
この杉並の家ではさらにさらにひどい貧乏生活をおくった。文芸講談の大谷内越山翁に師事して、その独演会の前講を演じさせてもらい、話道の開眼をさせていただいたのも、この前後である。もちろん、私は翁の前講を無料で勉強させていただいたので、代わりに翁はいつも帰りには一杯飲ませてくだすったが、初対面が盛夏大下宇陀児氏らと武州飯能の座談会で、そのとき無闇に麦酒ばかり煽ったので、よほどの麦酒好きと私を思われたのだろう、以来厳寒の独演会の帰りにも常に麦酒の御馳走だったのには慄《ふる》え上がった。
昭和九年末、松崎天民氏歿後の雑誌「食道楽」主筆となってから、だんだんまた私の生活は軌道に乗り出し、その頃幾年か絆を断ちかねて苦しんでいた酒場女が、自分の方から私の原稿料を懐中に家出してしまってくれた。けだしわが半生であんな助かったと思ったことはない。お天道さまは見透しで、やっと自分は夜が明けそめた夜が明けそめたとしみじみ嬉しかった。
やがて亡妻を迎える前後に、一、二年続けていた、例月芝の恵智十という古い寄席でひらいていた創作落語爆笑会をおわり、談譚聚団同人となった。
爆笑同人には死んだ燕路、蝠丸(伸治の父)もいたが、出世頭は志ん生、今輔、圓歌、可楽、三木助の五君であろう。モダン雑文家でムーランルージュの女優高輪芳子と心中未遂を諷われ、のちに眠剤《ねむりぐすり》をのみ過ぎて死んだ中村進治郎君も私とともに御同様のつたない一席を申し上げていた。
談譚聚団の方は今も余興団体として残っているが、当時は徳川
前へ
次へ
全39ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング