、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。
 ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たるべき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。
 しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。
 柳家権太楼君と駒形の動坂亭へ立て籠ったのは、昭和七年の夏だったろうか。一座はいま中風になった二世三語楼や、戦後高齢で郷里高崎でみまかった蜃気楼龍玉老人や、今の正蔵君も時にスケにきた。近頃ラジオ研究の俳優グループに名をみいだした守登喜子君も、当時はいまだ若く妖婉で、
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