た色に変わってしまったので、さすがの面々が真っ青になって、
「ねえさん、この滝の水の色変わったのは……」
 とこわごわ茶店の娘に訊いたら、
「今日はこの上の川で土木工事をしてるんですよ」
 ……出演した映画館は、湯河原だけに泊めてくれた自宅の方に温泉が湧いており、なかなか愉しかったが、もちろんお客は不入り。従って二日目を打ち上げても一文ももらえるお金はないはずを、中年の好人物らしい主人は、忘れもしない五十銭銀貨で二十何円かを番頭役の百圓の圓太郎に支払ってくれた。実演興行にはまったく不馴れな主人は、我々の賃金の方から差し引くべき二日分の税金を、全額自分の収入で支払ってしまったから、こちらへそんなもらい分が増えたのである。その二十何円をおよそもっともらしい顔で財布の中へしまってしまうと圓太郎先生、
「御主人、我々落語家は正直だが、旅を行く万歳(当時はいまだ漫才とは書かなかった)や安来節にはひどい奴があるからお気をおつけなさい」
 とヌケヌケと言ったものではないか。どっちがひどい奴だかわかりゃしない。凱歌を上げて一同が近くのそば屋へ、冷めたい麦酒で祝杯を上げていたら、小半次だけは浮かない顔、
「百さん(圓太郎の前名)、その金だけは気の毒だから返したらどうだえ」
 他の顔を見るとすぐ「五十銭(戦後は暴騰して百円になった!)くれ」と手を突き出すくせに、一番彼が気の弱いところのあるのも、浪曲界の元老浪花亭峰吉を実父に、先代木村重友を養父に、しょせん名家の生まれだからか。
 報知講堂で文芸落語旗揚げ祭をやった時には、前述の関係から峰吉老をはじめ、先代三語楼、今の正蔵(馬楽時代)、権太楼、春日清鶴、今の玉川勝太郎(次郎時代)諸君が助演してくれた。これも小田原時代だった。
 小田原の清楽亭という寄席では、次郎時代の玉川勝太郎君と二人会も演った。いまだ牧野吉晴君が青年画家で、即興の浪曲自伝を唸り、夭折した詩人の宮島貞丈君は、顔面筋肉を伸縮させるだけの百面相を演り、大河内から栗島すみ子、酒井米子まで巧みに見せた。これはのちに私が推称して、「映画時代」編集長たりし古川緑波君を激賞せしめたが、これをそっくり覚えて今日も高座で活用しているのが、柳家三亀松君である。
 私が関東浪曲の甘美な感傷を溺愛するようになったのが、前に書いた大正十五年浅春、長崎に少女期の志賀暁子君を訪れて、滞留中の金子光晴
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