ためいっそう年月の記憶がアヤフヤになってはいるのだろう。で、かりに早春としておくが、吉本系の寄席へ金語楼君、大辻司郎君が十日間出演していたのが、そのうちのひと晩だけ大辻君が前から受け合っていた警視庁の余興に帰らなければならなかった。で、急にその南と北のそれぞれの花月へ代演をしろという白羽の矢が、突如この私に立ったのである。金語楼君はその時南も北も私よりは遅い出番で、どちらの寄席も私の直前にはのちの五代目[#「五代目」は底本では「五台目」]松鶴君(その頃枝鶴)が登場し、まくらで如才なく口上を言ってくれた。そのあとへ上がって私は「南極のラジオ」を二十分演じた。南の方が和洋合奏で、お客も派手なので演りよかった。北は伴奏が和楽ばかりの上にひねったお客いわゆる笑わざるをもって大通とするお客が多かったから、南よりやや演りにくかったが、それとても楽天地や金竜館のお客に比べれば天地雲泥の相違だった。嘘もかくしもなくその晩私は、ここで、というのとはこうしたお客の前で、ひと月ふた月勉強させてもらえたならば、どんなに自分の腕が上がるだろうとしみじみ考えさせられたことだった。なにしろ伴奏が本格で、お客がまた本筋だったから、それに助けられてまずまず私の噺も実力以上によく演れたのだ。とこう書いたらたまたま当夜北の花月の桟敷に来合わせておられた故渡辺均君は、なんだちっとも巧くもなんともありはしないや、あの晩の君の噺は、と冥途からこう言われるかもしれないが、均君よ、私の平常落語以外の小屋で演っているときよりは、という意味なのであるから、なにぶん諒解してちょうだい。呵々。それにしてもたった一夜代演のこの私を、吉本では大きな立看板にじつにいろいろと口上文を書き、華々しく飾ってくれた。大局から見ては落語界に絶対プラスしなかった吉本ではあるが、この点の商売熱心だけは、再びここで特筆称揚しておきたいのである。
 私の大辻君代演の一夜はたまたま吉本への手見せとなり、吉本でもどうにか潰《つぶ》しの利く高座だと思ってくれたのか、来月、京都の新京極の富貴で金語楼、小春團治、九里丸とあんたで新人会を演るさかい出演しなはらんかと言われた。こちらはお客のよさに相恰を崩している折であるから、よろしい、でましょうと給金も決めずに受け合って、うちうち、来月を楽しみにしながら、ある晩、南の花月の楽屋へ行って遊んでいると、たまたま
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