作品、もちろんそれを神戸あたりの世界に直し、随所に和洋楽をはさんで演じた。
 大阪で最長期の出演は、千日前の楽天地(今の歌舞伎座)で、何とか座と題して武田正憲、金平軍之助、小笠原茂夫の三君が組織した喜劇グループの幕間余興、今の木下華声君も小猫八で出演していた。今日でいうならアトラクションで、十日ずつ演題を改めてちょうど二カ月出演したが、なにしろこの小屋、日本一台詞のとおりが悪く、どんな怒号する剣戟《けんげき》役者でも必ず一度は調子をやる(声を潰す)という折り紙つきのところの上に、文字どおりの幕間余興で、遠慮なく大道具の金槌の音が噺の最中に響いてくる。尋常一様ではとても演っていられたものではなく、それでもはじめの二日ばかりはまっとうに噺を喋っていたものだが、やめよがしに無遠慮な大あくびをされたり、もういっそう手ひどいのになると私が喋っている舞台のところへ大きく顔を突き出してきて楽屋のほうを覗き込み、「早よう芝居を演ってくれはりまへんか」などとこられてはとても落ち着いて一席喋っていられません。で、日一日と工夫をして私はなるべく多く囃子をつかい、照明をつかい、バンドの洋楽をつかい、「ラジオの幽霊」の一節では自分でほんとうにマッチを点けて人魂の燃えるところまで実演してごらんにいれたのだから、今の貞山の怪談噺のことなんか言えない。しかし考えてみれば本来が喜劇を見に来ているのが全半のお客のところへたったひとりで駆け出しの私が一席喋ろうというのだからその方が無理。とはいえ、サラリーをもらって出演している以上、毎日けじめ[#「けじめ」に傍点]を喰って引き下がるばかりでは、興行師に対してただすまない。
 当時は今日も隆盛な坂妻についで、市川百々之助とのちの伏見直江(当時霧島直子)のコンビの勤王剣戟映画の全盛期で、「東山三十六峰春の夜の眠りの中に……」云々と弁士が叫んでさえいれば大喝采の時代だったから、そこで苦しまぎれに私はどんな一席の終わりへもこの映画説明を演り、その時満場の照明を真紅にオーケストラボックスから「勧進帳」の合方を景気好く奏でてもらってフィナーレとした。こうさえすれば、どうやら受けて毎回お茶が濁せたこと、まるで昔、北海道の旅芝居ではいかなる劇中へも必らず義経が登場しては、お客さまを満足させたというあの珍談を宛らである。
 しかも、北海道の義経の方は、芝居の筋にはかけかま
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