記事を取り、間もなくそれは写真入り三段抜きで仰々しく社会面へ報道された。この記事を取りにきたたいそう愛想のいい記者が、のちの小野金次郎君だった。
 翌十五年一月号の「苦楽」へは、生まれてはじめて自作自演落語と題して「法界坊と俄雨《にわかあめ》」を発表した。折柄の俄雨に傘を借りにきた男が、破れ傘に因《ちな》みある法界坊の話をいろいろと聞かされているうち、とうとうお天気になってしまったという埒口《らちくち》もない一席。亡友吉岡島平君が私の高座姿だけは漫画でなく大真面目に描いてくれ、当時はこの作も本人いっぱしの気でおさまっていたのであるが、近年に至って鶯亭金升《おうていきんしょう》翁の落語集「福」(なんと明治三十三年発行!)にこれにほとんど同様の落ちの新作あることを発見して、もうその頃はあの落語をなんか巧いとも何とも思っていなくなっていた時だったのにやはり一瞬少なからず落胆したのだからおかしい。
 大阪放送局から毎月鳴り物入りの自作や西洋種の噺を放送しだしたのがその翌年あたりから。松竹座の花形説明者で私の美文たくさんで書いていた幻想小説が大好きで多少私張りの美文で情熱的な「椿姫」の説明などに全関西の女学生たちの憧れの的になっていた里見義郎君の紹介でニットーレコードへはじめて鳴り物入りの噺を吹き込み出したのが、その翌々年の春あたり。すなわち昭和二年頃であったと思う。ニットーレコードも、晩年は、タイヘイレコードと併合され、末路はかなくついえてしまったが、その頃関西から九州へかけての地盤はたいしたもので、今の山城少椽(当時古靭太夫)、観世左近、清元延寿太夫、吉住小三郎、関屋敏子、先代桂春團治、立花家花橘などがその代表的な専属芸術家で、かの「道頓堀行進曲」以来今日の流行歌や歌謡曲の前身をなすジャズ小唄なるものが台頭しだしてからは、故小花、それから美ち奴の両君もこの会社から華々しく打ってでたし、新人時代には、東海林太郎、松平晃、松島詩子君なども、この会社へみな吹き込んでいたものである。
 文芸部長は戦争中歿した木村精君(長谷川幸延君と会うと私はよくこの亡友の話をする)で、その幕下に今も懇篤な作曲家草笛道夫君がいる。やがて三遊亭金馬君がこの社からさっそうと売り出すのであるが、あとで書こう。私は、こうした会社の異色レコードとして発売されたので、その第一回の宣伝広告のごときは、まったく今
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