きた。
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第二話 落語家時代
私が、宝塚少女歌劇のスターとの恋を失って、そのため文士くずれの落語家たらむと志したに至るまでは、すでに書いた。
が、私のことにすると、単に寄席の高座へばかり上がりたかったのではなく、一個、変わり種の落語家として、じつはあっぱれ宝塚の大舞台へ一枚看板で押し上がり、彼女を見返してやりたかったのだ。でなければいくら当時の私の売文先が「苦楽」はじめ多く関西だったとしても、敵城近く乗り込んだりすることはなかったろう。そののち小林一三先生の辱知を得た時、先生は私に君は落語家でなく、役者になったらどうだ、それならうちの舞台を貸すがと言われたが、私は立ち上がって何かを演る方の自信はなかったので御辞退した。だから、またそののち数年、旧知古川緑波君がたしか山野一郎君と相携えて宝塚のステージへ一躍映画記者から転身出演し、花のおとめたちにかこまれて虹色のライトを縦横に浴び、いと華やかなフィナーレまで演じて、小林先生から当時の出演料で金一千円也をもらったと聞いた時には、嘘もかくしもなく、しんしんと私は羨ましかった。しかもその頃私は生まれてからはじめての困苦窮迫のどん底にいたのだったにおいてをや。が、それからさらに十年ののち、私は過去の落語家生活の体験を生かした『圓太郎馬車』という小説を書いて世に問い、それが緑波君によって宝塚系の劇場である有楽座に上演され、私の出世作とも更正作ともなったことを思えば、世の中のことはすべて廻り持ちであると言わざるを得ない。
ところで第一次「苦楽」の、たしか大正十四年早夏号の、私の寄席随筆の中へ、私は自らいよいよ落語家になりますという口上を書いている。そしてその自分の文章の中へは、徳川無声、林家正蔵(先々代)、正岡容の三枚看枝を並べてみたと覚えている。
けだし当時の徳川君は説明者としては第一流だったが、いまだいまだ話術家として高座へ現れてはいなかったから、この企画は超斬新であったのだ。またこの正蔵君はもちろん前に書いた流弁なりし先々代で、さらにその文章の中にはワクでかこんで先々代正蔵君の私の落語界入りのための口上文が書いてあったが、これは当時「苦楽」を編輯《へんしゅう》していた川口松太郎君が執筆したものだった。この年の九月、すなわち私の都落ちの直前、読売新聞社からは社会部の記者が写真斑同行でやってきて
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