金蔵等に忍入り」といふから、今の大衆ものゝ本家である。
「大名は九十五ヵ所右の内三四度も忍び入候処も有之由」それで結局「〆八十軒程は荒増覚居候由、此事限り無御座候此金高三千二百両程。」
そしてその商家大名から盗んだ金は貧民に分けたといふのだが、天保三年に捕まつた時の、筒井伊賀守組同心相場半左衛門……か誰かに取られた調べ書きでは、その金を自分で「盗金は悪所さかり場にてつかい捨候」と自供したといふのである。連累が貧民に及んではいけないのでみな自分でかぶつたといふ。
三千二百両は矢張りその時自供した盗金の金高であるが、実は凡そ一万二千両程に及んだだらうといふ。現在の金に換算したらどの位の金高になるだらう。
「右次郎吉吟味相済八月十九日引廻し之上、小塚原にて獄門に相成候」
次郎吉は大盗であるが、しかし当時は盗られる方にも器量人があつたと見えて、ある大名の奥方の寝所に忍び込んだ時に、彼が奥方の手文庫を盗んで今立ち去らうとすると、寝てゐた奥方が静かに床の中から声をかけて「後を閉めて行けよ」といはれた。これには次郎太夫の方が参つたといふことである。一寸大仏次郎好みのしやれた構想だ。――本多豊後
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