つぺたをぴしやりと叩く癖があつて、おぼえてゐる。昔の角力の十日目はほとんどいゝところはだれも出ず、われわれは、十日目といふと必ず隊を組んで遊びに行つたのであつたが、町内の共睦会などといふ今でいへば隣組婦人会青年団の連中も、十日目が御しやう楽で、吉川町の吉村金兵衛さんといふ永年の月番が肝いりで、花いろに染めた手拭に壜詰を一本つけ、別にか・べ・す(菓子、弁当、寿司)のきめで、ぼくの家の女中達なども、場所へ繰り出したものだつた。わざわざ手拭を銀杏返しの首つ玉へ、やの字に巻いて行つたものである。落語に晴天十日の頃の角力小屋を扱つたまくらの中に、よしずから半分尻を出してゐる客があるのを場内の見回りが「何をなさる」と聞くと、「後架へ行く」「後架なら外へ行かずとこの中にある」といつて場内へ引き入れた。この手でよしずへ尻さへ突込んで待つてゐればたゞで角力へはひれたものだ……といふのがあるけれども、半ばウソではない。
 場内の光りなども昔と今ではどの位の相違があるだらう。昔は土俵を照らす光が白熱ガスのやうな白つぱげてボーボーするものだつたやうに記憶するが、ぼくは子供心に、昔の小錦といふ人の裸体をおぼえてゐる。小柄でふくよかな、真白なからだだつた人である。小錦はからだに何一つよごれがないので有名だつたやうであるが、あの人を現在の恐らくは昔より強いに相違ない土俵の光りで見たならば、またどんなに美しい姿だらう。
 力士の姿も変つて、栃木山あたりから一体に幕内のいゝところが太り肉といはうよりも痩せぎすの精悍な長身になつて来たやうだが、この長身の裸体は何となく足の部分が寂しいやうだ。玉錦が居なくなつて、いはゆる「錦絵からぬけ出したやうな」殊にあの土俵入りの見られないのは、物寂しいことである。
「光り」でもう一つおぼえのあるのは、いつのことだつたか、逆鉾が梅ヶ谷かだれかと取つた時に、彼がぐいぐいおされて土俵ぎはへ迫ると、全く上体を弓のやうに反らせて、そこで態勢を撓めた、とたんに、目のさめるやうにパツと場内へ燈りがはひつて、満場期せずして沸くやうな喝采を起した時のことである。逆鉾の隆々たる肩や腰は汗で光つてゐた。この瞬間の弓なりになつた逆鉾が、今も眼底に焼き付いてゐて、消えない。
 この勝負はしかしそれから先どうなつたかおぼえてゐないが、ぼくはこれもいつのことだつたか、海山が常陸山を破つた騒ぎの時
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