けに違ひない。――政どんには(この前額の抜け上つていつも顔にひげの跡の青い、襟付きの縞物の半纏を引つかけた中老は、美声だつた。ぼくはこの政どんと十日に一度位は必ず寄席へ、色ものの立花家か、義太夫の新柳亭かへ、行つたゞらう。)、両国橋の欄干へよつかゝりながら、政どんが一節づつ先きにうたつて、「赤牛のいふこと聞けば……」という大津絵を二三日続けて習つたことがある。その歌は今でもその時の節通り覚えてゐる。
ぼくは小学校の、まだ高等科ではなかつたやうである。――そのくせぼくは煙草をのんでゐた。細巻きの大江戸といふ煙草が好きだつた。
ぼくは最近になつてから、当時佐太郎のいつも大の字にねそべつて川風に吹かれた両国橋の欄干は、どういふものだつたらうかと、先づ記憶をたどつて見るけれども、よくわからない。それから古い写真や絵をさがすことを始めると――これが却々手に入らないのだ。かれこれ思ひ立つてから小十年は経つたゞらう――やつとたんのう出来る材料が手に入つたが(第三図)、この明治卅一年七月十日印刷云々とある大阪の古島竹次郎名義の「吾妻土産名所図会」とある石版刷の絵本が、一番はつきりとぼくの求める材料を写してゐた。そしてこの絵から推して考へもし、目をつむつて少時の実感を回想するのは、佐太郎の大の字にねたのは、橋詰にある石の手すりの部分だつたかもしれないといふことである。欄干は川中へかゝつてからは木になつてゐるが、この木の手すりの上へ大の字にねたのではなかつたやうに思はれる。佐太郎はいつも非常に楽々とねてゐた。……しかし遂にこれは、佐太郎に今再びあつてよく聞き正さないことには、もうわからぬことになつてしまひさうだ。
[#「両国橋の景(第三図)」のキャプション付きの図(fig47737_04.png)入る]
否わからなくなるのはそればかりではない。両国橋の欄干そのものさへも――あれほど昔日夜親しかつたものが――危ふくわからなくなりかけてゐた。
欄干は川面から何間位の高さだつたものだらう。ある両国大花火の錦絵などで見ると恐しくそれをアーチ形に高く描いたものがあるが、あれは間違ひである。別の永代橋または新大橋の写真などから見ても、第三図の人と欄干の大きさの割合は当を得てゐる。(第三図の署名には応需春孝印、とある。右上は吾妻橋。)
ぼくの兄貴(木村荘太)などは、夏の水練場通ひに、こゝから水着のまゝさか[#「さか」に傍点]で大川へ飛び込んで、浜町の伊東まで、流れたことがよくある。――一度は花火の時に、この欄干が中程から人出の重圧に折れて、大分怪我人を出したことなどあつた。その事件の明くる日のぼくの記憶は、橋詰の左右の空地に――第三図でいへばコーモリをさした女のゐるあたり一面――下駄や草履が山と積まれた奇観であつた。
その同じ奇観はまたいつも毎年出水の時には、似たやうな状態が繰り返されたものだつたが、川の水かさのこんもりと増した急流の中を、ぐるぐる回りながら馬が流れて行くのを見たことがあつたし、大きな藁ぶき屋根も流れて行くのを見たし、岸近くの水中には、ワラだの草だのゴミだの、逆さになつた下駄やごみとりなどがらくたが一杯たまつて、岸の近くはゆるゆる流れながら、その流れるものゝ上にまた一杯に小さい真青な雨蛙が乗つてゐた。
第三図は橋詰の南寄りであるが、この反対側の北寄りには、一劃の砂利置場を隔てゝ、蔵造りの寄席の新柳亭がその一角だけ川中へ突出してゐたのは面白い風致だつた。その後東京にはかういふ不規則の面白い風景はどこにも無くなつた。――そしてこれもやはり風致が無くなるとともに追々その記憶や、描写や、卑近にはその写真や……さういふものも、どしどし無くなつて行くだらう。大水の川の中を流される無数の雨蛙の運命と同じものかも知れぬ。
底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
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