になるとすれば、少くも明治三十五年かれこれの横山町の路地のいひ立ては、大体この辺で間違ひは無い筈である。そしてこんなプロザイックな軒別のいひ立てにも、別に永井さんの路地を叙した不滅の芸術的文献が消えない限りは――それへの素材の裏付として――一つの意味はあらうといふものだ。たゞ、いかんとも残念ながら、絵の方には明治以後にほとんど一枚の路地をうつした作品も無く、これはまた写真さへ、路地を写したものは残つてゐない。
平素ぼくは思つてゐることであるが、土地の「名所案内」と云つたやうなものは却々編輯の難しい仕事である、と。一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しにした姿ならば何の本にでもその図がのつてゐる。しかしその欄干の具合といふことになると、その一枚の残影をさがすのに後年ぼくのやうな物好きが小十年はかゝるといつたあんばいで、銀座通りの写真は腐る程あつても、横山町となるとばつたり少なくなり、ましてやその裏影の路地となると、残影は全然一つも無い。横山町の路地を写した写真は非常な偶然で当時の素人写真でも見付ける以外には、文字通り今では世界中に一枚もその面影は伝はらないといつて、間違ひになるまい。しかも実は世相風の滋味なり面白さはこれ等にこそ尽きまいものを。
永井さんもその文章の中に路地を「屋根の無い勧工場の廊下」と書いてゐられた通り、ぼくは明治時代の路地の繁栄はそのまゝ、やがてそれが立体的に一つの建物にまとまれば百貨店になる、世態風俗の、商法的な先駆だと思つてゐる。各地の裏々を細長く賑やかに這ひまはつた路地の商品なり商法が、その貫祿を稍々大にすれば、上野や京橋筋に散兵線を敷いた「仲通り」的商法となるだらう。更にこれが一転して百貨店のブロックに一個所へ密集した時に、われわれは昔が無くなつたやうに考へ易かつたのは、実はそれはいはゆる発展的解消をこの立体ブロックへと仕遂げたに過ぎぬ現象だつたかもしれない。
名所案内記等には、画文ともに成るべくそんな町なり、建物なり、従つてその生活の契機を捕まへたいものである。その意味でさすがに長谷川雪旦の「江戸名所図会」はよく描いてあるし、明治になつてから東陽堂版の「新撰東京名所図会」も、材料に対して忠実であつたから善本が出来上つた。その後に出来た絵本の名所案内の類は、概して即興写生風に、材料の体系を追はず、たゞデテールだけを
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