何でもこれ等の末期の泡沫では見るに見ごたへがない。
また所謂江戸趣味と称する、芸妓とか、所在なさのおかみさんとか、さういふ人のわざと着てゐるのがある。わざわざ探しに探して如源の抜けのいゝ帯などを買つて来て、横櫛にして見たり、眉毛を剃つて見たり――それはまた私は断わりたい。それ等の幽霊に悩まされるよりは、いつそ無くなつてしまつたとさつぱり見極めをつける方が、気持もよく、本当であると思ふからだ。
で、――浴衣は美しいものであつた。然し今はもう無くなつてしまつた。
せめてわれわれは少しは絢爛の前時代に近かつたため、前時代のさういふ特殊の風俗なども垣間見ることが出来て、――これはたしかに知らぬよりは知つただけ何彼に、殊に美術の上には、利するところがあつたと思ふ。
私は中形といふものを余り賛成しない。殊に中形のがらには曲線的のものが多いが、大きな丸などは元禄時代などのおほどかな風俗なら知らず、今の細つこいなりでは、どうもがらだけ浮き易く、不釣合と思ふ。――この点にも浴衣の発祥の頃の人のがら合ひには、大てい直条の例へば弁慶とか、格子とか、種々の縞、それ等が用ゐられてゐて、中の丸味を蔽うて味感のきりつと締まる、そこから粋も渋さも出て来るそれにも合ひ、私は矢張り浴衣には直条模様のものに賛成である。
或ひはいつさう、みぢんにしてしまふか、小紋のやうなものにするか、絞るか、――実は先頃、草葉染のために少し浴衣地をかいて見たが、机上案と仕立てた実地とでは、うまくゆくかどうか?……、私は大体以上にいつたやうなところから、ちつとも珍らしくもこと新しくもない様ながらばかり描き、たゞ少し当世風にしたつもりは千筋なり、何んなりに在来のものより線に柔らか味を多少持たせて見た。――
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後記=これも大正十二年五月稿のものを補修したのであるが、文中に「バラック」とあるが、今もその文字通り読めて別にをかしくないのは、東京は近年に、相次いでひどい破壊を受けたものだつた。この文の中のバラックは、震災後のものの意味である。
私は自分がかいた草の葉染浴衣地の、これを着た姿の人を、見て見たいと思つて、当時電車の中など、それとなく注意したものだつた。しかし殆んど見られなかつた。あとで聞くと、さうして或る一定の浴衣地等々を町の乗りものなどでも散見するやうになるためには五千反以上、万と
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