のわけで、「地蔵祭りの盛りもの」を通り越さないと、それをさつぱりと洗ひ落して束ねる味覚へは届かない。尤もそれと同時に一方にはまた金銀珊瑚の高島田もあつたわけだが、――横櫛といふのは、当時三代目菊五郎の女房お豊といふ人の頭に禿があつた。それを隠さうと、横櫛にしたのを、町方の者が一斉に粋として真似、引いては大阪へまでも行響いた風俗――と巷間伝へられるものだ。
 水髪もまた便利である、浴衣の夏など殊によからうと思ふ、(今は猶更便利実用のものに断髪といふのがある。何れは坊主にでもなるか。呵々)横櫛も隠す[#「隠す」に傍点]には便利この上ない趣好だらう。――然しこれについては贅するまでもなく、決して、便利一つで起つたことではない。その「美しさ」、いはゆる、彼等の発見した、粋《いき》ゆゑに発祥したことで、これについてまた思ひ起すのは伊達の素足といふことだ。さぞ寒さはさむかつたらうが……といふのが不便であらうと寒からうとも、その頃の彼等は、そこに風情が忍ぶとなれば素足を法として断じて寒中も足袋は履かなかつたといふのである。
 洗い髪に横櫛をさして、浴衣がけに装ひ、当時の句に「明石からほのぼのとすく緋縮緬」といふのがある。これは若い人達の夏の正装を読込んだところであらう。それは兎に角として、すそさばきの荒い、一寸肩へ米しぼりの手拭か何か引かけた女姿を想像して見たらよいだらう。――これが何れはそもそもの浴衣がけのいさみの姿である。さういふ人が文化文政から天保、弘化、嘉永、安政……われわれの前時代には、就中江戸の下町一帯に、沢山ゐたはずである。
 当時両国は夏の夜の花火の別世界としてある。かういふ人が三々五々立ち並んで、手には団扇、川風が吹き、水には木の橋がかゝつて提灯の舟が浮び、花火があがる。――世の中の現実にはあつたと思へない、三拍子も四拍子も揃つた、また一境の美感。日本の徳川といふ時代は不思議の世界であつた。
 浴衣はその空気の中で出来た、特殊な一産物である。

        二

 今時ではもうゆかたを昔ながらに着て見せてくれる人は、芝居の源之助などの他には見られないであらう。これは実際さう思ふところで、寧ろ、私はかういはうと思ふ。浴衣がけの風俗は恐らく文化文政時代の江戸町方の者の進んだ発見である。昔のものである[#「昔のものである」に傍点]。それが惰性なり習はしなりで段々と
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