てあの場合正しい中にも異常特別に正しかつたのかといふと、さうではなく、あの当時のさしゑが一般にひどく低かつた。鶴三として見れば何も別段あの場合、特に歴史の一線を引かうとして登場したものではなく、画人鶴三の平素のまゝ、その画道の正しきを以て虚心平気に、只上野の山の絵ではない新聞のさしゑを描いたゞけの、平淡な事実であつたに拘らず、結果としてそれは、斯界に火のやうに一線を劃することゝなつた。さしゑ界一般の低下した有様がさうさせたと見る見方が成り立つのだ。
 それは鏑木さんがすでにさしゑの現役線には居られなくなつてからのこと、同時に注意しておくのは、「石井鶴三」は元々の上野出立ちからこゝに新規にさしゑの現役線へ従事した、大正度のことをいつてゐるのである。
 然るにさしゑ乃至さしゑ界なるものは元々低いものだつたかといふに、決してさうではなく、これは文献に明らかな通り、明治も小林永濯、小林清親の以後、出版ものの一部の名でいへば雑誌小国民あたりのものから、博文館上版のもの、春陽堂上版のもの……等々にかけて、日本の印刷絵画の上には、明治も到底化政度あたりの同じ業績に勝るとも劣らぬ華期を展き、月耕、年方、半古、近くは桂舟と云つたやうな名家が跡を次いでゐる。竹内桂舟さんの如き一貫してさしゑだけの仕事に精進された方もあつて、広業、鞆音などの、その後「上野の仕事」に転じて大名を走せた作家が、その一つの時期には、少しも画格を堕すことなくさしゑで心ゆく迄の仕事を残してゐる。――といふ工合に、さしゑ即ホン絵の、正しい盛観があつたのである。ぼくに考へさせれば、尾竹竹坡は後の文展の二等賞で残らうよりも、前の少年雑誌の謹厳な歴史さしゑを以つて、充分記憶されるに足る事績がある。
 何れもさしゑに直ちに正しい骨法の絵を描いたわけで、思へば一向不思議のことではなく、それぞれこの正道に研鑽した時代があつた。絵画史風にいへば、まだ上野の山が却つて盛観を兆さなかつた、胎動時代からかけて、やがて文展を機会として、「上野」といふ一つの格式、卑近にいへばその「ホン絵」のありやうが瞭然となる頃まで。明治の中期から後期へかけてゞある。
 そして、その中の、鏑木さんは丁度「さしゑ」時代から「上野時代」へとバトンの渡るさなかの、さしゑ界から最後のバトンを受け継いでまつすぐ上野へ駈け込んだ選手――といつて良い立場の方に当るのである。
 それもなにも別段殊更に上野の駈け方を俄かに稽古された、いはゆる「駈け出し」なんぞではなく、十分それ迄のさしゑ時代に、さしゑ・ホン絵にかゝはらぬ正しい絵画を、同時代の大選手達の中で、共々、研鑽された方であつた。その中でいへば、若い最前線の花形であつたわけである。
 をかしないひ方をすれば「さしゑ」スクールから「上野」へ派遣された、代表選手だつたわけである。やがて時が変ると、石井鶴三が「上野」から「さしゑ」スクールへ派遣された代表選手となつたやうに。
 鏑木さんの先生水野年方さんが始めて上野へ作を問はれるために仕事を精進された模様を鏑木さんに聞くと――それを鏑木さんは文に記して居られたが――その頃ほひの先人の画室の神聖さなり画壇の緊張が偲ばれて、頭が下がるばかりだ。その後のたうたうたる、上野へ只ポスター・ヴァリューだけに絵を出品する下賤の風などは、鏑木さん始め画壇の先輩は、誰も経験せず、考へてもゐなかつた。
 たしか日本風俗画大成の解説の中であつたと思ふが、鏑木さんは、明治の版行絵画の中にさしゑと口絵の別があつてさしゑは単色版、口絵が極彩色木版の、書籍の巻頭にのこるものである。が自分達はこの口絵をかゝされる事を如何に待望しただらう、如何にこれに力をつくしただらうといふ意味のことを、述べて居られる文章があつた。また、次のやうな文献がある。それは談話筆記であらうが、明治四十四年に春陽堂から出てゐる「現代画集」に鏑木さんの署名で載つてゐる文章の一節である。
「……私自身としては将来は插画画家としてよりは寧ろ展覧会制作に全力を尽す積りでありますが、然し插画の研究も全く之を棄てず、傍ら大いに研究を続けて行つて插画の上に多少の貢献を致したいと思つて居ります。」
 そしてその後、鏑木さんがこの明治四十四年の言葉通りに着々善処されたことは、衆目の見る通りである。しかも昭和最近年に至つて鏑木さんが「私は本当は展覧ものよりさしゑ風なものがかきたい」としみじみ云はれるのは、推し計るに、これが三十二年以前の明治四十四年だつたならば、「……寧ろ展覧会制作に全力を尽すつもりであります」といはれたのと、等しく美術する虚心においては全く同じ心操に、発するものと考へられる。それでなければぼくのやうな後進をつかまへて「自分はさしゑの出であるから」と同じく淡々として心懐を述べられるわけがない。
 い
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング