るや、二階の仕事場へ行かれようとして、その階段の曲り角のところで堪へやらず佇立して泣かれたといふことだ。
これはさう鏑木さん御自身が書かれたのを読んだのか、あるひはぼくの耳食かははつきりしないにせよ、いかにも鏑木さんらしい。鏑木さんはさういふ悲しみをなさる方であらうと思ふ。
またこれも鏑木さんが書かれた文章で読んだのかと思ふが、――いつかこれは又ぼくもうつして及ばずながら自分の訓戒としてゐることには――自分はひとと相対する場合に、その相手の心持なり立場となることを心がける。さうして人と話をする、といふ意味のことを鏑木さんが述べられたことがあつた。ぼくはこれは鏑木さんのいつたことに間違ひないと(それが何にあつたかは忘れたけれど)かたく思ふのだ。何故ならこゝにも最もそれらしい鏑木さんの「人柄」が読めるからである。
それかあらぬか、鏑木さんの展覧会画評を見る度にぼくは思ふ。鏑木さんの画評を執筆される影の一つの心操には、出来るだけ若い人の仕事を探さう、多少でもそれがあつたら特筆しよう、として居られる心持が読めて、日本画壇は良い先輩を持つて居ると思ふのが常である。ぼくの記憶にして間違ひでなければ、太田聴雨氏の仕事を初めて特筆是評されたのも鏑木さんだつたらうし、その他、多くあるだらう。自分のことを云つてをかしいけれども、例へば己れを凧に譬へれば、それがどうやら順風に揚がつてゐる時、思ひ切り糸のダマを出して凧々揚がれ揚がれと地上から鼓舞激励された――これを批評の本質とす――ぼく自身のおぼえは、他ならぬ鏑木先生から受けたものであつた。そしてその頃は猶未見の鏑木清方氏だつた。
これはぼくとしては所詮生涯の記憶になるものである。が先生は何も人にそんな重つたるいものを殊更に与へようとて、なすつたことではない。――有るか無いかの学生をいとしむ先輩の心、さういふ心を先生が常に(然り不用意の中にも)御持ちだつたといふことである。
ぼくはしかし先生の「怒」については知らないのである。といふのが、人にして怒り無きものあらんや、ぼくがもつと鏑木さんに平素近づいてゐれば、「怒」もまた知らうものを、その意味ではぼくは、平素決して先生と親近といふわけではないのだ。
従つてそれだけ何と云つても先生について知らないところが多いかもしれぬ。――それにも拘らずその人の「人柄」を述べようなどとは、いけないかも知れなかつた……
たゞ人と人との間のカン、或ひはウマといふものは、これは有るものである。ヘンな事をいひ出せば、そのカン故に初めて相逢つた異性同士が存外そのまゝ偕老同穴の契りを結ぶこともある世の中だ。少々我田引水めくけれども、ぼくは逢つてゐることではちよくちよく鏑木さんに逢つてゐる。そして常にカンが働き、ウマが弾み弾みしながら、この人はかういふ人だと思ふ。その第一には、この人の持つてゐる言葉はぼくには字引無しでも読めさうだ、と、ウマが恐れ気もなく鏑木さんの胸中に飛び込んで、はしやぐのである。
――そしてこれは、弓矢八幡、人の世に外れつこないと信ずるものである。
曾て鏑木さんは盗賊にはひられた時に、その翌日の新聞談話で、何でもお宅の忍び返しのところか何かを仰向いて見て居られる写真が出てゐたやうに思ふのだが(そしてその頃はまだぼくは先生のお宅を知らなかつた)、
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白浪の退くあと凄し秋の月
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秋の月だつけか、冬の月だつけかはつきりしないが、此のたしか九代目団十郎の矢張り盗賊に逢つた時の所懐を新聞の人に示しながら、「たいした事ではありません」と却つて恐縮らしくいつて居られる「賊鏑木清方画伯邸に入る」三面記事を見たことがある。
ぼくはこの記事を見た時に、何だかこれ程気に入つて愉快だつたニュースはなかつた。寔にをかしな少しトボけたイキな泥棒であるし先生である。が、盗難事件には相違ないと思ふまゝに、先生へ御見舞の手紙を出すと――ところがそのぼくの手紙は却つて御祝ひのやうな文調だつたかも知れなかつた――程経た頃に鏑木さんからハガキが来て、それにはちやんと印刷文で盗賊見舞に対する叮重な礼状が認められてゐた。そして一隅に先生の字で「今頃こんなものを出してすみません」といふことが添記してあつた。
――万々これが鏑木さんの人柄の一面だと思ふのであるが、賊に見舞はれてどつちみち異常でゐながらも、団十郎の句へ連想の動くを止め敢へず、これを新聞の人に淡々と話したまゝさて方々から見舞状が来ると結局それに対して律義に礼状の印刷を御こしらへになるところなど――この盗賊奇聞は小さいことでそして突発事であつたが、それだけにこれに応変臨機のこたへをなすつた鏑木さんは、恐らく予め用意深く対処なすつた事々の場合よりも一層よく、鏑木さんの「持味」を発露
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