個性を暫く忘れさせるものがある。少くもぼくは清長や、春章や、歌麿の仕事を見て、その何れにも焼き付いたやうなそれぞれの作の個性を常に汲む、一方に、すでに到底その仕事のスケールなり深さは「清長」でも「春章」でも「歌麿」でもない、もつと凄い、壮大なるもの。絵筆を持つた場合の日本人といへば、簡単であるが、意味はそれが一番わかりよくないか――さういふものに接して撃たれることがある。
同じやうに、清方ゑがく円朝の像も、この絵にくまれる個性の「清方」は便宜上それを通してこの絵が組立てられてゐるまでの、実はこの絵はより大きく日本人の描いた一枚の不滅な肖像画となつてゐる。さういふ決定的な功績を、あの絵は我々の絵画史の上に示した、当代の金字塔の一つだつたと思ふのである。従つて、それを描いた鏑木清方だと思ふのである。
踏絵等々に始まる鏑木さんの個性はいつも清々しく美しいもので、築地明石町の絶唱を始めとして、近年の慶喜公もよければ、哥妓図も一葉も良い。(ぼくは今残念なことにはまだ近作の藤懸さんの肖像を見てゐない。)イヤなものは一枚もないのである。美術として個性の厳密端正なる吟味を通過してゐる仕事に、親疎は別として、イヤなものなどありよう道理は無いからである。
――ところで、逆説ではないけれどもぼくをしていはしめよ。鏑木さんに有り能ふ欠点を若し指摘せよといふならば、他ならず、ぼくはその「イヤなものをかゝない」鏑木さんの端正厳密こそ、それが鏑木さんの常に特点であると同時に、どうかすると欠点でもあるのではないかと考へる。先生許させたまへ。ぼくは腹中に一つ思つてゐることをいつて了ふと、鏑木さんのかゝれる、――常に趣味透徹して美しく、個性満々たる――人物には、最高の情緒もあれば最麗の姿もあり最緻最微の神経に事欠かぬ影に、たつた一つだけ鑑賞のうれひとも云へるものゝあることは、その人物や手足、服飾などに(服飾の点からいへば近作の一葉は円朝像に殆んど肉迫せんとする、立派な作品であつたと思ふ)余りといへば画品の清々しく透みわたるまゝに、埃や、汗や、あぶらや、ゴミ……これの無いことが物足りないが――
人は如何に端麗の秀人と雖も埃や、汗や、あぶらや、ゴミの無いものはない。
といつて埃だらけ、あぶらだらけ、汗だらけ……の手足人頭は元より美術に禁物のことはいふまでもないが。――
鏑木さんのものにはそんな「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手にさはつても少しもあぶらめいたことがなく、かいつくろつた両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
それは確かに「美しい」一つの欠くべからざる要素である。
たゞ円朝像には、両手に持つた湯のみにもそのこつくりとした重さと同時に手の皮膚が感じる湯呑の温度、互ひのつや、或る埃、或る汗までも感じられて「美しい」以上に「本当」だつたし、ぼくは一葉像で最も感服したのはその服飾の、胸から両手、胴体へかけての、作者の「眼」といへるものであつたが、あの絵を見てゐると、そこになんどりとした女人の体温を感触して、到底この作は、たゞ事でないと思はしめる。
そして円朝像にはその「只事ならぬ」感銘が更に画面くまなく充ちてゐたと思ふのである。円朝の頭部の重さ、その丸さ、その肉付けには、昔の彼の伎楽面がカンカンの木材でゐながら猶千古乾くことなくしつとりと人肌の「汗」をたゝへてゐるやうな、それと同じ肌合ひがある。
あの作品は鏑木さんの画いたに違ひないものである。
しかし「鏑木さん」以上の、否、以上も以下もない「鏑木さん」といふ個々性に関しない、それよりもぢかの、ニンゲンの不死像だといふ、右の意味である。
そこで恐れ気もなくいへば、先生の再び三度びこの円朝像の「汗」を画いて頂きたいことを。先生はどうかすると余り先生の美しい神経をいたはり、完全無欠の趣味性に澄み渡るあまり、その写されるニンゲンを清掃なさり過ぎはしまいかと思ふ。
鏑木先生に向つてこそ「汚ない」絵をかいて下さいと非常を[#「非常を」に傍点]懇望出来る、日本画壇――日本画洋画をこめて――の、「綺麗」さは百尺竿頭を極め尽した画人だと思ふ。――暴言罪多。ぼくは切にこの感じを先生に対して抱いてゐるものである。
三
次の一節はこの書きものをなすに当つて一番最初にぶつつけに誌した未定稿であるが――ぼくは鏑木さんのどこに牽かれるのだらう? それは勿論鏑木さんの絵と、同時に、その人柄に牽かれるのだと思ふのである。
されば鏑木さんの「人柄」とはどんなものだらうか。
人には喜怒哀楽がある。ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。鏑木さんは土田麦僊を失つた時にその報を受く
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