御自分の希望を胸に身近く秘めて、ぼくに上村松園さんの美点を細かく話して下すつた。また勝川春章の至れるをまるで我々が時々欧羅巴の画人を羨望さへ籠めた子供つぽい感嘆を交へて話すと同じやうに、その春章の女姿のかけものをそここゝと指されながら、居ずまひさへかまはずに乗り出して、話して下すつた。
 さういふ鏑木さんは「大家」でもなければ「先生」でもない、ひとへに、絵の仕事を専心したいとなさる。ぴちぴちした熱つぽい志望溢れる画学生のやうな姿の――それがやがて談終つて、対座すれば、実に静かな極めて練れた、ぼくなんかとは一廻りの上も年歯異なる、すでに立派な画人伝中の名家なのであつた。ぼくは無遠慮に率直なことをいふ。鏑木さんは到底たゞものではない。傑物だと思ふのである。

        二

 ぼくは鏑木さんの傑作は円朝像だと思つてゐる。円朝像は日本の美術作品として不滅だといふ意味で、同時に作者にとつての傑作だといふ段取であるが、ぼくの一つの論法からいへば、実は夙に「鏑木清方」といふ作家は紙絹に向ふや必ず常に愚作をかゝない人であるから、「清方ゑがく」傑作は枚挙に遑が無い。――といふのは、いつも必ず、筆さへ持てば、此の人はこの人の[#「この人の」に傍点]絵をかく人である。美術の的からそつぽを向いたやうなへんな絵は予めかくことを欲しない人である。鏑木さんならば常に大丈夫安心成る人である。技術が手堅いの、何が安心成るのと論ずるよりも先きに、その「人」が手堅く、従つて見識が手堅く、趣味神経が手堅い。そしてそこから出て来る技術様式であるからこれも亦手堅いわけ。鏑木さんは大丈夫の人である。
 しかしその大丈夫な、常に安心成る人の多くの作品の中でも、円朝像はまた格段のピッチに上つてゐたと思ふ。どうしてだらうか。
 ぼくは思ふに、円朝像の場合の鏑木さんが、一番、鏑木さんその人の個性よりもより以上逼迫し、突進して、美術の殿堂そのものゝ中へぢかにはひつて居られたからだと思ふ。それは一つにはさういふ百尺竿頭の業のこの人は成る作家だといふ論証になる一方、ぼくなんかはそれだからこそ、慾でなく、鏑木さんに「鏑木さん以上」を求めたい一人となる。鏑木さんは常に個性鏑木清方の軌道は寸角の作にも決して曲げない作家であるから、一応も二応も美術として、先づそれで良いのであるが、円朝像の不可思議はこの人の作として我々に作の
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング