ノした。
われわれどうして「紙が無い」などといつてゐられるだらうか。
洋画の学生は今でも初学に石膏像の素描をするけれども、これはフォンタネージ先生がイタリヤ・アカデミーの風を日本へ移入されたときから始つた定規の学習方法で、そのころはこの Plaster Cast を白人形といつた。油絵を描くには所詮外来の彩料に待つ他なかつたわけだが、これは貴重この上ないので、陶の土に荏油を交ぜて加工したものを白に使つたといふ。「白」には相違ないが、元々茶色がかつた上に、荏油といへば、わかり易くいへば提燈屋、傘屋の紙の上に塗る、あの油なのである。完全の色度を獲ることは出来ない。
明治時代には総じて文化的優質の品物類は外来のもの、いはゆるハクライモノに限つて、内国製は出来なかつた。それが追々と「和製」でも出来るやうになり、従つて簡単に手に入るものとなつたが、品質はおちたのである。――その品質が漸く良くならうとするところへ、戦争に出あつて、機構の潰滅を見たのだつた。
当分またわれわれはもう一度「舶来即、上等」のある期間を経験するのではないかと思ふ。
二十一、唐草模様
安政六年――西
前へ
次へ
全68ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング