も前に、われわれの東京に劇場を備へたいと心されて、その完全な設計図も引いてくれてゐる。帝国大学も、三菱の建物も、およそ赤煉瓦の古風なしつとりしたものは[#「およそ赤煉瓦の古風なしつとりしたものは」に傍点]此の東京でコンドルさんならざるはなかつた。


     十八、外人画家

 日本にはいろんな外国人が来てゐる。――明治以前にはそれも「南蛮紅毛」のものよりも隣邦中国の先達に依つて親しく導かれたものが多いが、開国後は、断然「南蛮紅毛」総じていふ「西洋人」に教へられて、開眼するものが少なくなかつた。いや全般であつたといつて良いだらう。「南蛮」は、歌にいふ「あんなん、とんきん、じやがたらで……」それでもそさまが眼に付いた、と、一ころは芸妓屋の下地ッ子などもうたつたものだつた。じやがたらはジャカルタ。――南方何々共栄圏などといはれたあの辺一帯の洋人を指したものである。これに擬へて「紅毛」は、これぞ西の、本場の洋人であらう。
 小林清親は、卑近にいへばポンチ絵の開祖、歴史風に見れば数々の東京風景を残した明治画壇の逸才であつたが、当時横浜にゐた英人のワーグマンに絵の教へを乞はうと、志を立てたこと
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