いところが多い。
「ぼく」の東京はさういふ知らない部分で一杯である。それも上からの「バーズ・アイ・ビュウ」で行けば、眼界はそれらにも届くであらうが、横からの「パースペクチヴ」でのぞくためには、知らないところは見えない。漸く眼鏡からのぞける範囲はといへば、こんど七十年ぶりに区名が変つていよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で云へばほんの爪先きぐらゐのものだ。
 パリへ行くと今でも「猫の首くゝり横町」などといふ古い名が町に残つてゐるさうである。何故東京も両国のトラや横丁であるとか、だいち、ぐんだいなどといふ名を、少しは残さないかと、まあ、「思ひ」はするものの、二度の焦土に向つてそんなことをあげつらふ料簡は、持合せない。――が、兎に角、私の東京は、狭い上に、剰さへ、大変化をした。
 私は愛古家であつても懐古家とはかぎらないので、万事につけて「昔を今に成すよしもがな」とは思はない。――もつとも現在のわれらはすこぶる貧困である。町を歩いても、うつかり「円タク」を呼ぶぜい[#「ぜい」に傍点]に至れないし、飲食店のア・ラ・カルトも、ふところ勘
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